Tokyo 11月04日(日)
         
 国 連人権理事会(スイス・ジュネーブ)で有害物質の管理・処分を担当するトゥンジャク特別報告者が25日、東京電力の福島原発事故で避難していた住民の帰還 に“待った”をかける声明を発表。
 トゥンジャック氏は、報告者であり、これが国連人権委員会の意見とみなされます。
 事故前に安全とされていた年間1ミリシーベルト以下が適切であり、日本政府には「子供の被ばくを最小限にする義務がある」と訴え、そして、出産年齢の女 性についても同様の対応を求めていることが大切です。
 ジュネーブの日本側は「風評につながる」と懸念を表明していますが、風評(嘘の情報)を流しているのはむしろ日本政府のほうなのではないのかと伝えたい のだと考えます。放射能汚染によって引き起こされる健康被害について、日本には重大な人権侵害がおこなわれているとはかなりやんわりとした言い方でしょ う。けれど、ただの人権侵害ではなく、汚染による病気や死亡はすでに数の上でもあらわれており、「国家規模の大量殺戮がおこなわれている」というのが事実 に近いのです。いまや、学校に通う子どもたちが給食によって被るであろう健康被害は想像をはるかに超えています。
 国内の放射能汚染について、いまは完全に沈黙し、オリンピック礼賛一辺倒にひた走る、NHKを筆頭とした国内のメディアからは決して得られない重要な情 報として、世界が放射能汚染をどのような基準で判断しているかを知らせてくれた意味があると思われます。もし、子どもたちの健康のことを真剣にお考えなら ば、ホームスクーリングの実践を検討すべきです。「世間体」なのか「子どもの健康保全」なのか選択の余地などないのではありませんか。
 私の場合、フクシマ事故以前の時代でしたが、当時でさえ産地偽装などで学校給食問題はすでに顕在化しており、この点でもホームスクーリング以外に選択の 余地はありませんでした。けれども、いまやどんな混ぜモノをされているかわからない牛乳や乳製品がつかわれているのです。


聖書の女性 聖書の女性 No8 ポティファルの妻 (2)
 
 前回、やや神学上の煩瑣な議論に入りかけてしまいましたね。
 どうして、ポティファルの妻がヨセフを性的な慰みものとすべく、言い寄るに至ったのか、「ポテファルが夫として妻にどのように対応していたのか」が問題 になります。
 「妻の問題の影には、常に夫の妻への対応に問題あり」と問われるのであり、パウロが書簡のなかで言っている「夫としての妻にたいする務め」を果たしてい たのか、既婚者にとって、自分の体はもはや自分だけのものではなく、伴侶のものでもあるという自覚をもっているかどうかが問われているのでした。
 夫としてのポティファルについて忙しい毎日だったかそれとも隠れて不倫していたのかなど、聖書に何も書かれていないにもかかわらず、もしも、ポティファ ルの妻が夫にたいして性的にも満足していたとしたら、ヨセフに言い寄ったりはしない。・・・おそらく・・というわけで、どうしても行間を読むのは限界があ ります。
 夫の妻にたいする不誠実を理由に、それでは妻が結婚以外の性的関係をもつことが許されるのかといえば、許されるはずもないのは社会通念であるはずなので すが、昨今の日本は“失楽園”とかいって、婚外の性的交渉を賞賛するような世相もみられ、キリスト者も悪しき誘惑を受けかねない状態におかれています。
 不倫の罪について、「夫のわたしに対して示した不誠実の罪に比べたら、私の罪など小さい。こうなったのは夫のせい」などといった言い訳は通用しません。 夫の不誠実を理由に妻であるものの罪の重さが免罪されるわけではないのです。
 結婚関係以外の性的関係をもつことは、ユダヤ社会では、死罪に当たる重い罪とされていましたが、エジプト社会に蔓延していた性的放縦の影響があるのかも しれません。姦淫罪を憎む主の心は異教徒に対してであろうが同じなのですが、さらに信仰を与えられているものが犯す罪への加重はさらに重い裁きに値するの です。
 けれども、ポティファルの妻における罪の性質の、最も大きなところは、主人である自分の立場を利用して、ヨセフに言い寄ったことにありました。奴隷にた いして、命令できる立場だったために、罪への罰は、「権力の乱用」によってさらに加重されます。一般に「刑法の分野での加重」も、立場や責任それに信頼関 係があったかなかったかによって重くなるのであり、ヨセフが奴隷として女主人に仕える立場にいたのであれば、その立場を利用しての罪は、そうでない場合よ りさらに重くなるのでした。 
 ヨセフが要求をあくまで拒否したことによって、ポティファルの妻は、自分の期待が裏切られたことへの恨みの炎を心に燃やして嘘をいい、ヨセフが自分と性 的関係を言い寄って、自分が大声をあげて拒否した結果に逃げていったと口から出任せでふれまわります。ひとつの罪は新しい別の罪を生み出します。ポティ ファルが妻の言い分を受け入れたのは、“言っていることが嘘であれなんであれ”とにかく受け入れることで世間体をとりつくろうとしたのかもしれません。
 ポティファルの妻が主を怖れる女性であったとしたら、たとえ、ヨセフに性的魅力を感じても、主に従うことを優先して、絶対に言い寄ったりはしなかったで しょう。さらには、あえて自分のおかした罪に覆いを掛けたうえで、ヨセフに仕返しするような所作もなかったことでしょう。
 わたしの心に留まるのは、やはりこのような誘惑の場面において、ヨセフが示した主への真摯な態度でした。
 ヨセフに女からの性的誘惑にたいしても、それに支配されない罪に陥らない「強さ」があったのだと思われますか。もしも人の罪への抵抗力について、強い だの弱いだのといえる部分があったようにみえたとしても、ヨセフが強かったからというより、むしろ、誘惑の場面があっても、「誘惑に飲み込まれないように主がヨセフを守ってくださった」と読まれるべきでしょう。
 ポティファルの妻からうけたような誘惑と同じ災いでなくても、“信仰の異なる異教徒からの迫害”みたいな災いを、たとえばクリスチャンであるがゆえに 被ったとしても、信徒に示されている選択肢において、“中間”はありません。主に従うか従わないかそれだけです。
 ヨセフの場合、主に喜ばれる道はひとつでした。女主人の怒りをかって自分の立場が悪くなるかもしれないとわかっても、ひたすら誘惑を拒否し続けることで す。
 ヨセフからすれば、「主を信じて従ってきたにもかかわらず、なぜ主はこのような“辛い運命”に引き渡されるのか」と主につぶやく理由としないで、主を見 上げたところでしょう。
 監獄に入れられ、食事や睡眠さえままならなかったと想像しますが、主は、人からみて災いと思われるような出来事さえ益とされ、かえって災いのなかから、 たくさんの人々に祝福を与え、繁栄に繋がるステップとされたのでした。
 ヨセフがポティファルの妻からの誘惑に負けず、主を怖れて、一時の快楽に身を委ねることをせずあくまで性的関係を拒否したこと。
 そして、どのような悪い環境におかれても、ひたすら主のご計画に信頼し「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」「どのような財 宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとします」 といったダビデとも共鳴しているともみえる信仰をもっていたことはほんとうに幸いでした。