Tokyo 11月03日(土)
         
 聖書の女性 No8 ポティファルの妻 (1) 神学について
  
 聖書が記しているのは、清らかな話題の事柄ばかりでなく、ポティファルの妻の記事のような、“性的堕落”の記述もみられます。あたりまえのことですが、聖書が縷々記しているねらいは、ヨセフの生涯にたいしてどのような摂理のみ手を働かせておられたかなのでした。
 兄弟たちは、父ヤコブからの寵愛を受けたヨセフを妬み、エジプト商人に奴隷として弟ヨセフを売ります。
 そしてエジプトの役人であったポティファルのもとに奴隷として売り渡されたのですが、そこには“摂理”をどのように解釈するのかという神学的な課題が存在しています。
 やはり“神学的”などとい言葉をつかうと、抵抗感をもつ“福音主義者”は多数おられるでしょうね。
 ポティファルの妻の話題に入るまえに、すこし脇道にそれて、「神学」について述べてみましょう。
 “聖書を読むのに必要なのは神学などではなく、信仰のみだ”というとき、たとえばヨセフの場合、神がヨセフの信仰に従って、どような道を歩かせるか決めておられたとみれば、それは“ヨセフがどのような信仰的な判断をするか”に基づいて、ちょうどチェスの駒を動かすように”摂理の手を働かせておられるのだと考えるのか、それとも、主のご計画は人の想像の及ばないところに存在していて、兄弟たちに捨てられたことや、どこに連れて行かれるか。奴隷として誰に買われるかなど、いっさいがご計画のなかにおかれていたという“どのように聖書を読むのか”という“思考回路のチェック”が必要なのでした。聖書の記述全体を読み直すと、ヨセフの生涯の意味は、あらかじめ主のうちにあったご計画によるのだとみられます。アブラハムの時代に、アブラハムにすでに知らされていた(創世記15:13)ということを踏まえたら、ヨセフの行動や信仰のありかたによって主がご計画を変更されていたのではないという理解に至るのに、それほど時間はかからないでしょう。
 わたしは、宗教改革の時代に聖書の立場として確認された「信仰のみ」を信じていますが、そのように語られる文脈を踏まえなければならないと考えます。(詳細はここでは書きません。)
 いえ、それでも、主のご計画が「人の信仰がどうかに依存している」とみたい人は、主のご計画には二段階あり、大筋で決まっていることがあっても、たとえば細部においては、み心においても決まってないことがあり、人の決断とによる中間の部分を残しておられるのではないかという“思い込みによる勝手な想像”を入れたくなるのでした。主のご計画の絶対性を受けるについても、最後は神様の決定であっても、経過において、ある程度は人の意思決定を材料にして判定しておられるのではないかという言い方です。これが“近代的理性観”の影響を受けているという悟りに導かれなければ、たとえ聖書をどれほど熱心に読んでいたとしても、「事は主のご計画にだけによるのではなく、人の努力や信仰の態度によって決まるのではないか」という近代主義に道を開くことになります。聖書ではなく、自分のの言いたいことのために聖書を後付として根拠をもとめているだけに過ぎないというのは、近代主義(リベラル)な立場ばかりではなく、福音主義者を標ぼうするキリスト者のなかにさえ顕著にみられるのです。
 聖書全体をどのようにみるのか学ぶのが“組織神学”。神学の要素の一つである、弁証学とは、近代人に影響を与えている思想や考え方の傾向が聖書解釈にどのような影響を与えているかを学ぶ学問。聖書は当然ですが、弁証学は組織神学を構築ための基礎ともされます。学校文化に汚染された現代人は、信徒であれ教職であれ、聖書を読むとき、聖書それ自身がどのような読み方をされなければならないかという“思考回路の洗浄”(または知性の聖化=聖霊の働きによって知性が聖化されること)を経験しなければならないのです。“神学する”必要性は、学校教育を経て「考える力」そのものを失わされてきた現代人にとって、さらに増しているのかもしれません。かのバン・ティルが“認識論”の必要性を言ったのも、ここのあたりに根拠があるといえます。
 いえ、たとえ、神学書など読まなくても、聖書によってもたらされる「訓練」だけで事たりると豪語していたキリスト者もおられましたが、主の恵みのよってそのような方おられるのかもしれません。それでも、一つ断言できるのは、信仰に聖書以外は必要ない!聖書だけをもてと言っておられる牧師がおられたとしたら、“信徒はただ牧師(わたし)のいうことにだけ従っておればいい”といっているのと同じなのです。信徒に神学するのを禁じ、自由に考えるのをストップさせていたら、その教会はすでにカルト化の道に入っていると推察されます。「牧師が推薦した図書だけを読め」といっているのもこれと同じです。

 ヨセフからみるとポティファルの家の奴隷とされたのは、“偶然”そうなったとしかみえなかったでしょう。けれども、そのすべての経過に主が働かれていたとされるのです。(39章2節)主のご計画のなかで、人がマシンのように動いているに過ぎないのだとみるのではなく、生命体として生きることや、地球の上で生存できることも、主の愛に基づくとみるのが聖書的世界観となっていなければ、ヨセフをドラマティックな物語のなかのヒーローのように扱うのは必至です。同じように、ドラマ仕立てにつくったハリウッドの映画も俗なるヒロイズムが入り込むとき、主のご計画などすっかり消し去られ、人が勝手に想像した荒唐無稽なサクセスストーリーとかわりなくなります。
 子どもむけの教材に、そのようなものが多いのではないかと危惧しています。
 
 ずいぶん脇道にそれてしまいましたね。次は本題のポティファルの妻について述べてみます。