Tokyo 10月28日(日)
         
 女性の社会での権利を認めるという動きは、社会的に女性たちが抑圧されやすい状態におかれていたという過去の事実があったという意味です。日本社会のなかでの女性の市民権を確立してきたというところからすると、公娼制度を廃止するとか、女子教育を推進したとかキリスト者がかかわった分野が多いことは知られています。
 ホームスクーリング運動が歴史のなかで直面した諸問題のなかで最初に出会ったのは、フェミニズムからの攻撃でした。曰く、男女の差別をなくし、「女は家にこもっていろ」という時代に、主婦が仕事をせず、子どもと過ごしているだけというのはどうなのかというものです。
 「性同一性障害」という病をもつ人たちの公民権ばかりでなく、男を女に、さらには外科的手術をもって女を男にするという肉体改造を受け入れさせ、フェミニズムの行き着く先は、同時にすべての男女差をなくせという運動に繋がるのは必至とされていたのでした。
 
 男女の違いを撤廃する運動は、「女性教職」「女性牧師」「女性長老」を公認させる運動に連結していて、欧米の諸教会でも女性牧師・女性長老の問題はいまもさかんに議論されているのでした。もし、教会が、「郷に入れば郷に従えと」周囲の社会通念を基準としているのであれば、このような議論は全く必要のない無駄な議論となるに違いありません。けれども、教会は常に、聖書を基準としてものごとを決めてきているため、結果として社会通念にさえ、異を唱え、場合によっては反対しなければならない場面が多々あるのであり、いえ、聖書的な考え方に逆らうような考え方や一般常識が入り込んだとき、主のために闘うのが教会のあるべき姿であるとされるのでした。
 聖書解釈という意味で、パウロの書簡でも、“時代背景”に影響を受けたり、当時の文化的制約を受けているような箇所はいくつかあります。ところが、パウロが女性の働きについていうところでは、創世記が引用され、パウロは自分の言い方の根拠を神によって創造されたところに寄せているのでした。たとえば、第一テモテ2章12〜13節

 12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。 13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。 14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。 15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
 
 当時の女性たちが、教育から除外されていたことを踏まえれば、たとえば近代社会では女性教育が男女の区別なく与えられているというつまり社会な制約から解放されている現代社会においては、パウロの教えは現代社会にそのまま適応できないのではないかという議論はかねてから存在していました。それは女性が頭にかぶり物をつけるようにとされている教えについてと同様の原理を適応されるべきだと。
 ところが、パウロの教えを現代社会の通念によって“再解釈”してしまうと、そのような再解釈をパウロのすべての教えに当てはめなければならなくなるのでした。礼拝に出席するときに被る「ベール」についていえば、当時の習慣から言っているのでしょうけれど、パウロはそれを創造のはじめにまで根拠付けを与えていないのですが、「女が教会で教える立場にたつ」ついての言うところでは「創造された」というところに根拠を与えているという違いを、聖書を解釈する上で、無視できないのです。
 教職としての能力とか、わけても説教についていえば、男性より優れた説教をなされる女性もおられ、長老職においては、女性への牧会など、どうみても、女性のほうがいいに“決まっている”事例は多々あるのです。それにもかかわらず、「教職長老」「治会長老」も、教会においては、アプリオリに男性による職務であるとされるべきなのは、教会が「聖書に従う」という原理原則をもつからに他なりません。
 そこは、政治家や世俗のリーダーの有様とは一線を画すのだと考えます。政治家に女性が活躍されるとか、社会のトップに女性がいるというのは、キリスト者としてはむしろ賛成すべきなのではないかとわたしは考えます。
 伝統的なプロテスタントにたいしては“教会内部は別だなど、そんな敷居をわざと上げて、人を入れなくしているから世から嫌われ疎まれる”などとみられ、いわゆる自由主義の教会のほうが“時代を読む”とかに敏感であり、世相にあわせて、いくらでも教会の敷居を低くできるのかもしれません。
 もし、キリスト教会が人がつくる群れであれば、世俗の流れに乗るのはあたりまえなのでしょうけれど、教会は人のものではなくキリストのものであり、教会に集まった人は、主の召しに応じて集った人々なのです。これがものすごく大切です。
 それをふまえるとき、わたしは「女性教職是認論」にいつも絡みついている「フェミニズムの毒」を警戒せざるをえないのです。