Tokyo 10月24日(水)
         
 ホー ムスクーリングにおける独立性(independency)というテーマについてあれこれ考えていたところなのですが、“単立教会”という考え方があり、 「単立教会」もまた、イン デペンデントと呼ばれるのでした。
 本の題名は忘れましたが、「改革主義にたった“単立教会”は、ことばの矛盾であり、リフォームドとは、単立主義をとらない教会観である」と書いてあった のを思い出します。
 伝統的な改革主義に立ちつつ、同時に、日本でも外国でも、どの教派や群れにも属さない単立教会は決して少なくないのです。単立教会が形成されるように なった経緯(歴史)は、それぞれ千差万別であり、教派に属すると会議とか規則とか“面倒くさい”ので、ただ聖書だけに従っていればいい単立がいいというだ けでもないのです。
 単立教会というありかたを、ひとつの“賜物である”という考え方もありますが、ここでは、「影の部分」を浮き彫りにしてみましょう。
 教派という集団を形成すると、決まって規則とか、合意事項とかに縛られるのであり、“教会は自由でなければならない”といって“自由度”をもって単立と いうときの“自由”は、教会の雰囲気が自由とかの意味ではなく、国家との関係において、統制を受けていない自由なキリスト教会の意味なのであり、どうも “誤解”が横行しているようです。(いえ、これは蛇足です。)
 
改革主義に立 ちながら、しかもリフォームドを標榜するのは“ことばの矛盾”であると、わたしが確信するに至ったのは、リフォームド信仰を確信した青年だった頃でした。 単立(インデペンデント)には、はじめからいくつかの問題が内在していると考えられたからです。
 インデペンデントに伴ういくつかの問題はホームスクーリングにも共通した課題として存在しているのですが、ここでは「単立教会」の課題に絞りましょう。
 そのひとつは、“聖性”とか“純粋さ”にかかわる事柄です。つまり、“混ぜモノを入れない礼拝を献げたい”という一応の大義を掲げていることとは裏腹 に、“牧師(リーダー)による独裁”が隠れている場合があるのです。ことを、いろいろりっぱな大義名分をならべるとしても、要は「自分にあうか合わない か」で決定され、群れがいずれ「蛸壺化」するのです。「蛸壺化」とは、蛸が自分を守るために“壺”に入るのですが、誰も信用できないで外から身を守るため に殻に引きこもるように、いえ、そのような所作が必要な場合もあると認めた上で、なお、とげとげしく自分を守ることだけに労力を費やすのであり、“意見の 異なる人と、合意点を探して、合意できるとこから出発する”というスタンスがとれなくなります。
 つまり、どういう出来事が予想されるかというと、独裁者が“教会をしきる”ようなスタイルが常態化するために、外部からの批判を受け入れることができな くなるのでした。(極端な例かもしれないですが、宗教改革時代のドイツで1500年代後半、“ミュンスター千年王国”に生々しい史実が残されています。)
 いえ、危険から身を守るというのは問題がないのですが、問題点は“単立が常態化”することにあります。
 独裁をどのように回避するかというテーマもありますが、いろいろな事情からキリストの群れが単立化していったとしても、「時が満ちたら、リフォームドの 群れに属する」というビジョンをもたなくなるとき、つまり、単立が常態化すると、グループは“カルト化”の危険をもつにもかかわらず、やや強調した言い方 かもしれないですが、ブレーキをもたないで進む車のようだと自覚しなければなりません。
 単立のほうが“家族のような交わり”が強く、それはそれで“居心地がいい”教会となるのですが、神学者のJパッカーが指摘したように“居心地の良さ”だ けで互いに繋がろうとすることが、いかにキリスト教会らしくないことでしょう。〜クラブとか、聖書愛好会とかとなんら変わりなくなるのですから。
 内村鑑三は尊敬すべきキリスト者であると認めなければなりませんが、同時に、礼典論などいくつかある教理上の問題のほかには、このような群れの独立性の もたらす危険への対策をいっさい立てなかったことにもあると考えます。内村さんは、教会論については異端的であるともいえますが、“神学そのものを否定す る”ところから出発した“異端の亜種”であるというみかたもあります。
 リフォームドの教会形成については詳細を省きますが、人の誤りやすさとか、罪に傾く傾向などをふまえた教会形成がなされていると考えます。なにも、「カ ルビン主義が完全だとか、リフォームドは間違いを犯さない」など幼稚なことを言っているのではありません。
 お山の大将になって、だれからの批判も忠告も受けられないようになったとき、いったい誰が歯止めとなってくれるのでしょう。いえ、よくいえば、単立とは そのような群れの純粋さを侵害されるという危険を避けるために、「大海に船をこぎ出すようなものだ」といえるのかもしれません。純粋さを保つために。教会 の聖性をどのように考えるのかという“教会観”も影響しています。内村による単立主義ばかりでなく、たとえば、アナバプテストばかりでなく、近代のメソジ スト運動のもたらす光と影があり、メソジスト流儀がもたらす(ジョンウエスレーを祖とするウエスレアン・アルメニアン)分離主義からもたらされる新しい “パリサイ主義”の影響も少なくないでしょう。(ただしパリサイ主義は残念ながら、どこにでも生まれ、リフォームドにだって存在してしまうとして も・・・です。)ただ言い方をかえれば、単立の状態をを正当化するために、カルビンだのウエスレーだのを持ち出しても、結局、単立傾向が常態化している群れに惹起されるであろう諸問題は何も解決していないのです。
 いえ、いつか“理想とする群れ”が現れたらジョイントするのかもしれません。けれども、「政治活動(運動)はいつかするかもしれないかれ ど、理想の政治家があらわれるまで、政治活動をしない」とかいっている教会に似て、自らカルト化に誰からも忠告や批判を受けず、改革も訂正もでき ない状態に陥るに任せているのだと自覚しなければなりません。
 独立性のもたらすもうひとつの問題は、“継承”の問題です。(時間がないので詳しく書くのは後回しにしますが)“息子や娘に代替わりさせる”以外に継承 の道がなくなるのです。だれか後継者に教会を奪われるように感じたどうだか真相がわかりませんが、内村鑑三の流れをひくグループにおいて、“牧師が死亡し 天に行った暁には、教会を解散する”と規則に書いていた群れがありました。ひとつのグループに属することが戦争参加を意味する時代であったとき、内村の生 き方も全部問題だったとは思いませんが、単立主義もそこまでいくと完全な独裁に落ちていて、いつカルト化してもおかしくないのです。そのような自覚さえも たない、「鍋のなかの蛙」みたいな状態。どうしたらそんなのから逃れ出ることができきるのでしょう。相互の独立性を保ちながら、緩やかな協力関係を模索す るというのも。