Tokyo 10月23日(火)
         
  バッハは、「この曲を演奏家が弾けなかったらどうしよう」など一切考えないで曲をつくりました。そのため、バッハ演奏は聴いている側の心地よさとは裏腹に 演奏家に負荷を与えるようなものであると言われます。たとえば、バッハのブランデンブルグ協奏曲。
 全部そうであるといえるのでしょうけれど、とくに2番のソロ演奏でつかわれるトランペット部の難解さは、それを完璧にひける奏者も希といわれるほどなの でしょうけれど、バッハの生きた時代における管楽器は、いまのような“ピストンバルブ”は存在せず、音の高低や強弱はほとんど、「人力」でおこなわなければなり ませんでした。トランペットなどの管楽器がどれだけ演奏するのが困難だったか。ピストンバルブの発明は、演奏家にとっては、“管楽器の演奏は、努力さえすれば誰 でも手が徒届く範囲になる”といわれるべき革命的な事だったのですが、バッハの時代には「そんな音を出す楽器すらない、いわんや演奏家となればいるはずも ない」という段階だったのでした。それでも、バッハは音を紡ぎ出す天才として、音そのものを前提として、そのような演奏家がいるかいないかに関係なく、ト ランペットの名曲を創作したのでした。
 演奏家泣かせかどうかなど全く考えずに作曲したのは、バッハだけでなく、近代のピアニスト・ショパンやリストも然り。そしてプロコフィエフも演奏家に とって、きわめて何度の高い曲であるにもかかわらず、バッハもプロコフエフも、作品をどう表現するかだけにしか興味がなかったと思われます。いいかれば、 バッハやショパンやプロコフィエフは、演奏家にとっては「最大の応用問題」となるわけで、近代の学校文化の洗礼を受けた演奏家にとっては、“これが弾けた らエリート”“これが弾けたら名演奏家”となるわけであり、わたしなどは、いろいろな演奏家を聞き比べるタチなので、「自分はこれだけの技術をもった演奏 家だ」とアピールするような演奏が多いのでした。聴衆もまた、何度の高い部分で拍手などして、音楽そのものの質を貶めてしまうのですが、たしかに凄いのは 音楽ではなく、演奏家だなどというのは本末転倒であるとしても、すごい演奏には拍手したくもなるでしょう。
 ところが、そこに原作家の意図とは別の、“混ぜモノ”が紛れ込んでしまうのでした。
 「どうだい! オレの説教を聴け。これは誰にも真似できない芸術作品だ」などと思いこんでしまうと、原聖書作家である神の意図と大きくずれてしまうのと とてもよく似ています。
 辻井さんは、そのような世界レベルの高さにあるのは間違いないとしても、その高さそのものに甘んじていないとおみうけします。そして、辻井さんのピアノ には、不思議なことに高い場所にいるという“傲慢さ”みたいな、そのような“現代の演奏家にあちがちな臭み”が全く存在しないのです。
 どれだけ難易度の高いピアノ曲でも、“やすやすと弾けてしまう”のに驚くというのはありえるでしょう。けれども、辻井さんの場合はやや違うのであり、優 しさが溢れているのですが、それは、ただの“やさしさ”とだけでも表現できないのです。
 原作家がこれを表現したいと意図していた内容を表現できるという希有な演奏家が現代社会に現れたのであり、ひたすらショパンが好きとかひたすらバッハが 好きだというところから出発し、人の歓声が多いか少ないかではなく、原作家の意図が具現されたことを喜び、いえ、たぶんそれさえ辻井さんにとっては二次的 なのであり、芸術家のつくりたかった音の世界を楽しめることに満足しておられるのでしょう。
 わたしはあまり人を褒めたくありません。キリスト者として偶像礼拝になってしまうからです。
 しかし、プロコフィエフやラフマニノフの曲がこれほど美しいとは今まで思ってこなかったし、あのベートーベンのピアノ曲がこれほど深みのある感情豊かな曲だと知らなかったのです。少なくとも辻井さんの演奏を聴くまでは。