Tokyo 10月17日(水)
         
 米国におけるホームスクーリングの展開 (6)法制化によってもたらされる新しい壁
 
 
HSLDAの働きによって、1990年代後半には、すべての州でホームスクーリングが合法とされました。東部地域では、ホームスクーリン グへの規制をつくる傾向があり、西部地方では容認と、ホームスクーラーの側からみると、西のほうが自由度が高いとされていたのですが、米国政府や行政側が 常にホームスクーリングを敵視していたのかというとそうではありません。
 どの州でも子どもの養育について、“行政が責任をとらなくていい”というのは官僚制度からみると受け入れやすかったのだといえますが、一方で「認可」と なると、「義務教育は国が仕切る」ことについての例外とはならなかったのでした。認めるには条件があるとされたのであり、条件とは、親に大学卒業程度の学 力を求めるものから、地域での所属学校から定期的にチェックを受けるような、たとえば達成度を報告させるものもあり、年度登録だけしていれば、行政からの 介入や監視などは一切ないものまで様々でした。
 ホームスクーリングの側からみると、行政は“認可”をしてくれるのであり、非合法なことをやっているのではないという安心感を得る、いわば交換条件とし て、行政からの“監視”のようなものを受け入れなければならないというジレンマにおかれることになりました。
 つまり、合法化されることで、真っ昼間に堂々と街を歩いていても、警察に職務質問されたり、児童相談所の職員が親による虐待を疑って近づいてくるなどの 心配がなくなるのを歓迎する反面、認可条件を満たすのが非常に高いハードルになってしまう場合、ホームスクーリングそのものが非常に自由でなくなるという 一面が生まれていたのでした。

 どの国でも、認可条件にどのような項目が列記されるかによって、自由度が変わってきます。
 それでも、禁止されるよりいいと思われますが、「自由度が限りなく奪われたようなホームスクーリング」は、「わさびなしの寿司」みたいなもので、もとも と、家庭が自由に教育をおこなえるようにするのがねらいだったのに、ホームスクーリングをはじめることで、学校からの締め付けが強化されるなどの“本末転 倒”さえ存在しました。
 ただ、それも考え方ひとつで受け止め方が違うのであり、学校関係との連絡を維持することで、もしかしたら、課外活動などの学校プログラムを利用できるの ではないかという“いいとこどり”ができるのではないかというみかたもありました。年に数回しか仲間入りしないという“ズル(つまり、・・・いつも教室か ら逃げ出したいと願っている子どもたちの側からはそうしか見えない)”をやっているホームスクーラーにたいして、優しい接し方があるとはいえず、む しろ「いじめる対象)」になるのではないかとか、やはりホームスクーリングに学校を絡めるのは、ひとかた縄ではいかない事態なのでした。
 大原則として、ホームスクーリングの自由が確保されなければなりません、この自由度がどのくらい確保されるのかです。法制化による認可と引き替えに「い ろいろな条件」を無理やり飲まされるのは絶対に歓迎できないと、“非合法なホームスクーリング”によって自由な状態を謳歌したいと願うホームスクーラーは 多かったのです。

 行政側からすると、認可に応じたホームスクーラーは「良いホームスクーリングをおこなう人々」。そして条件を受け入れるのを拒否して無認可のまま非合法 なホームスクーリングをおこなう家族を「悪いホームスクーリングをおこなう人々」。そのように「善し悪しを仕切りたがる」のが行政の天性というか、どの国 でもどの行政にもみられる“性分”なのだといえます。
 もちろん、ホームスクーリングに善し悪しなどもともとないのであり、いろいろな多様性がみられるのは好ましいのです。けれどもいずれにせよ、いつか日本 でも、台湾やフィリピンのようにホームスクーリングそのものが合法化されるようになる流れは(たとえ時間がかかるとしても)、避けられないと考えます。
 合法化され、ホームスクーリングが認可されるように努めつつ、同時に、認可条件が限りなく“無条件”に近いものにもっていくことが必要です。それは少し 後で別ページでとりあげる「ネットワーク活動の成熟」が必要だと考えます。
 親による子どもの虐待が、国による規制制度を引き出すというのが定石のようにみられるのです。
 もし、そうあれば、ホームスクーリングをおこなう親について、学校に子どもを預けているよりさらに教育熱心な親なのであり、虐待どころか、子どもにとっ て最善の教育環境となっているということを知らせなければなりません。それは、個々の家庭それぞれが虚飾(見栄を張ることもふくめて)ではなく、ホームス クーリングで育った子どもたちが社会的な健全さと優位さをもつことが実証されるようになるのが必要です。
 これに関連して、“マスコミによってどのように誤ったホームスクーリング観が広がっていったか”別のテーマとして紹介します。

 ビル・ゲイツの「未来を語る」

 セミナーにむけた準備として、かつて読み、いちど古本屋に出したものを、ネットで注文して買い戻し、再度読んでみたところです。
 まず実現はしないでしょうけれど、ゲイツさんとは個人的に話してみたいアメリカ人の一人ですね。ものすごくおもしろそうです。金持ちですが、金や富その ものに全く執着しておられないのがすごくいい。
 本書初版は1995年。この頃は、UNIXにかえて、ゲイツさんが開発したMS・DOSが主流になる時代が始まったばかりの頃で、彼はすでにインター ネットが創り出す産業構造の変化や教育の変化についての未来像を、今からみてもものすごくリアルに記しています。
 米国や米国人嫌いとは、もしかしてどこにもあるのかもしれませんが、パソコンやインターネットにかかわる人であれば、ゲイツさんの本書は一読の価値があ ります。・・・「固い頭をやわらかくしたい教育関係者」の皆様にはとくにおすすめです。「教育は最良の投資」の部分は今読んでも、改めてすばらしい。今回 のセミナーで語った“テストによる能力判断の限界”についても的確に指摘されています。
 それに、最初に読んだとき、関心したのは、日本語訳の完成度の高さでした。厳密には原文と読み比べてみなければなんともいえませんが、西和彦さんの日本 語の読みやすさは群を抜いているのではないでしょうか。そしてゲイツさんはインターネット社会が「ホームスクーリング」にもたらす影響もすでに言及し、西 さんは「家庭授業」と訳したところに「ホーム・スクーリング」という“読み方”まで表記しているのです。( 邦訳318ページ )今からみればホームス クーリングについて、ただ“授業”とだけ単純にラベリングはできないにしても、著者の意図を忠実に反映させるという意味の優れた翻訳の手本でした。
 1995年とは、米国でザン・タイラーさん(Zan Tyler)が子どもを学校にやらないことで行政から訴えられた事件から10年後、HSLDAが法廷闘争が成果を見せはじめる頃で、ゲイツさんはすでにそ の頃、まだ「草の根」に過ぎなかったホームスクーリング運動にたいして何の偏見をもたず、未来のコンピューター社会到来とともに、彼が貢献できる分野のひ とつであるとはっきりと認識しておられたのです。
 優れた本であると同時に、優れた日本語訳でもあります。