Tokyo 10月15日(月)
         
 米国におけるホームスクーリングの展開 (4) アンスクーリングかスクーリングか
 

 ホームスクーラーが学校に子どもをやらないと決めたとき、おそらく内面の葛藤として見えてくるのは、それでは自分の家庭をどのように「学校時間の替わり」をつくるかでしょう。子どもを学校の縛りから解放するまではいいとしても、その後の有り余った時間をどのように管理するか、その問題を最初に解決しなければならないの は子どもではなく、その子の親なのでした。
 ホームスクーラーが教科書やカリキュラムなど学習プログラムをもたないアンスクーリングという手法を実践しはじめると、スクーリングを主体にホームスクーリングをおこなう人々から批判を受けるようになりました。批判の大部分はアンスクーリングの本質を、「子どもを遊ばせているだけ」とか「子どもの興味だけに任せて、親が指導しないと、間違えた方向に行く」など、誤解しているものが多かったですが、なかには、ほんとうの意味の「放任主義」をアンスクーリングの名のもとに、自他共に認め させようとしているという実態も否めなかったのでした。もし放任主義とアンスクーリングの区別が理解できなければ、“子どもを怠けさせているだけだ”とみられるのは致し方ないのかもしれません。

 米国の場合、たとえ、アンスクーリングを紹介したホルトが基礎に流れているとしても、さらに、ホームスクーラーむけのさまざまな教科書が開発されたため、はるか にスクーリングをしやすい環境になっているといえます。アベカやボブジョーンズばかりでなく、ホームスクーリングむけの教科書は、ものすごく多岐にわたり、多様性を重んじるにふさわしい様相がみえています。 
 アンスクーリングの結果が良くなかったなどという事例は過去に存在しません。アンスクールの提唱者は、発明家エジソンの少年時代に範を求めることが多いのです。エジソンの母は、トーマスが一日中部屋に引きこもって考え事に時間を費やすことを受け入れ、むしろ、そこに少年エジソンの居場所があると確信していたからでした。
 もっとも、わたしたちはアンスクーリング派になったのは、教科書が英語のみだったからであり、日本語版がみられなかったことによるのですが、子どもたちが学びたい ことのために教科書を集める手助けをするという方法のほうが結果として学習効果を得られるとみたからでもあります。
 アンスクーリングにおいては、親は子どもに答えを与えないし、子どもが解答したことについても親は評価しません。あえて貶(けな)すことなどないですが、反対に“褒める”というのも、優れた教育手段のなかで大切と認めつつ、「褒めるタイミング」がとても難しいといえます。
 目標を高く設定した場合、あまり褒めないほうがいい場合もあり、反対に、学習をただの自己満足やいわゆる“天狗をつくる(傲慢な心を生み出す)”ための手段としてはならないと考えました。
 教科書を与えない、つまり「はじめから答えが存在していない」とか「動機付けだけを学習のきっかけとする」というのは、教科書を使うより、はるかに“上級テクニック”なのです。たとえば、パソコンマニュアルを使っているうちは、パソコンの初心者であり、何も見ないで、指が勝ってに動いている状態でパソコンを使わなければ、“パソコンを使っている”とはいえないでしょう。基本として、初心者は、マニュアルを熟読すべきなのですが、最近のPCは、“使って覚えなければ、使い方などわかりはしない”とばかり、すごく簡単な操作マニュアルしかみられなくなりましたね。
 たしかに教科書=マニュアルというだけではないかもしれません。ただし、聖書は特別です。
 聖書はただの教科書ではなく、“魂の糧”なので、暗記させ、自分用の聖書をもたせ、そして、ただ内容を説明するのではなく、“メッセージ”として心に刻まれるように聴かれ、そして語られなければなりません。
 “子どもの時代は、教科書を使って学習するものであり、教科書を使わない学習などの応用は、たとえば高校生や大学生になってからのものである”と決めつけてはならないと考えます。漢字学習は大切ですが、「本を読むための道具」だと考えて、どうしても本を読みたければ漢字の意味と読み方を覚えなければ成りません。実は、ある程度漢字を読みこなせるようになってから“読書”をさせるというのは、まっとうな考え方ではないのです。子どもたちは、自分が得たいと思った知識について書いた本であれば、必死になって漢字をふくめた文章を読むようになるのです。
 日本語や英語など、広く言語ということばをつかえば、言語は、「聴く、読む、書く」を同時進行していなくても、日本語学習もふくめて、聴くことができるのが最優先でしょう。それから自分で読めるようになるのであり、書けるようになるのはその後であると考えます。
  それと、独学できるようになるために、個人差があるのも事実なのです。
  ホームスクーリングによって確信できたことは、親が毎日読書の意味やすばらしさを体感している生活を送っているのであれば、たとえ文字を教えなくても、そのようなレベルに子どもたちもなるのだということです。
 一年生で“覚えているべき漢字”が全部100点とれたからといって満足しているようでは、ほんものの読書に入ることは不可能でしょう。もし、アンスクーリングを目指すためには、学年別到達目標のすべてを一度全部白紙に戻し、たとえば数学ですら、小学から高等数学までのあいだにはどんな段階的な垣根ももともと存在しないのであり、数の概念からはじめて、微積分などの応用数学に至る道順とは、あえて学年別にする必要もないのです。“飛び級”をさせないのが日本の方針みたいですが、ホームスクーリングにおいて「飛び級」は当たり前なのです。
 中学生の年代で、英米の小説を原文で読めるのは無理ではないのです。高校英語があまりに“非日常的英語”を食らわせられていて、ただでも死んだ英語なのに、さらに英語嫌いを徹底させているようなものなのです。
 英語はもともと言語なのであり、使えなければ意味がありません。点数をとることを目標とすることについて英語くらい、それにそぐわないものはありません。言っていることが100%わかるか。伝えたいことが100%伝えられるか、表現したいことを100%表現できるかというところまでで考えると、アンスクーリングの目標は非常に高いところを目指しているといえるのです。 
 
 いったい41%もの人たちが安部さんを支持しているというのはほんとうなのか  
 40%超える人たちが支持しているというのがどういう意味でしょう。10人のうち半分近くの人が安部さんにエールを送っているなどということが現実とは思われません。数字がマスコミによって創り出された“真っ赤な嘘”だと気づく人々が増えなければなりません。選挙結果の数字をいじり、マスコミに嘘の支持率を出させるというのは朝飯前なのでしょう。自分に好意を示す人々なら、権力にものをいわせていくらでも高く扱い、批判をしようものなら、徹底的につぶしにかかる。このような政治の問題は、「力の側につけば何でも許される」という悪魔の思想からくるのであり、日本を貶める考え方です。
 100人のうち、いえ1000人のうち一人くらいるかいないかでしょう。安部さんを支持するなどといって憚らない人の実態など。