Tokyo 10月12日(金)
         
 ¶   オリンピックは中止したほうがいい
 オリンピックのために、およそ2兆円。税金によって積み上げられた額はさらにふくらみ、やすやすと3兆円は超えるだろうといわれています。繰り返します がオリンピックは日本民族のためになりません。
 わずか2週間の運動会のために、国民の“血税”を湯水のようにつぎ込むことが日本民族をどれだけ貶(おとし)めてしまうことか。 
 20代30代の若者が生きるための希望さえそぎ落とされています。仕事にも結婚にも、子どもを生み育てるという夢すら奪われています。そんな夢も希望も ないままで、稼いだ収入のかなりの割合が「税金」と「家賃」に消えてしまう」生活を強いられているのです。
 貯金ができないどころか、一歩先は“路上生活”という人々がどれだけ増えていることでしょうか。
 オリンピック・パラリンピックは、こんな状態で突き進むのは某国どころの騒ぎではなく、できるなら即刻中止したほうが良いです。

 米国におけるホームスクーリングの展開 (1) ホームスクーリングは貴族だけの ものではない

 イリイチは、近代学校制度がつくりだす新しい“無知”の存在を世に知らしめました。学校における評価とは、学習そのものよりも、「洗 脳されやすさ」が評 価の指標とされています。教師の言うことを100%再現できる子が優れているとみなされます。たとえば試験で100点をとれるこは優秀。それにたいして0 点の子は、0点しかとれない愚かな子どもとみなされます。そんなのは子どもに内在する能力のほんの一部に光りをあてたいるに過ぎないのではないでしょう か。
 さらには、学校制度は「集団への適応」が訓練されていて、適応できない子どもは「適応指導教室」に属さなければなりません。新聞やテレビの内容にたいし て、伝えられている事と真実が乖離しているとみて、伝えられていることにただ反発するのではなく、そこに紛れ込んでいる真実を探そうとするかどうか、問わ れている「リテラシー」は、メディアや、政治家の発言ばかりでなく、ネット情報全体にわたると考えます。
 米国のホームスクーリング運動がもたらした最初の貢献は、「限られた有資産階級に許された特権」だったものを、「すべての家庭に有効である」と知らせた ことにあります。もともと、教育が“貧困にある家庭”のために国がおこなう福祉の一環でしたが、ホームスクーリング運動の大きな功績は、家庭の教育力は、 経済的な状態との相関関係がないということを知らせたことが大きいのです。
 ホームスクーリングにおいては、教育に特別なお金をかける必要はないのであり、お金をかけたら良い教育ができるという幻想から家族を解放する役割を果た しました。(メインとして図書館を使うので教科書は不要。教材も100円ショップで買えるものがほとんどでした。ネット情報が必要ですが、ごく普通の回線 で間に合いました。)
 ただし、「ホームスクーリングにはお金がかからない」という意味は、15才を過ぎるあたりまで。15才を過ぎる頃に、テストによる能力審査や、大学教育 をふくめた専門分野に進もうとするについて、教育費がかかるというのと意味が違うのです。15才を過ぎたら、独学が可能であるのか、専門教育をおこなう機 関であるかは個々のケースがあるとして、家庭以外の教育機関に委ねることはありえると考えます。
 ホームスクーリングはゼロ才から15才くらいまで、“専門家に委ねない”ところから出発するとしても、具体的には「義務教育機関」を過ぎた高校生の年代 あたりからは、学びたい内容が絞られているという上でのはなしですが、専門家たちに委ねる道を選択すべき場合があると考えます。息子はプログラミング言語 をす べて独学で身につけ、すでに起業しています。娘は医療事務の試験を受けるために、コンピューター専門学校に通い、受験勉強もしました。Rモアさんが提唱し たよ うに、ホームスクーリングは15才まで。それ以上は、独学をふくめて、学ぶ動機に適応した“スクーリング”をというのが定石のようです。その意味でありが ちな誤解を解いておきたいのですが、ホームスクーリングは学校を否定するものでも、専門学校や塾・家庭教師を否定するものではありません。
 ホームスクーリングをはじめる決心をした親には、最初の段階で、「カリキュラム(学習指導要領)」から解放されると同時に、“教えない”ことが子どもの 学び方にどうつながるかを会得しなければならないというハードルに直面するでしょう。いえ、それが、ホームスクーリングにおいて直面しなければならないい ろいろな課題のなかの、もっとも初歩的なハードルに過ぎないとしても。

¶ 「独立性」の罠
  ホームスクーリングが各地に広がるなかで、生まれてくると予想されるのが「独立性」がもつ光と影陰の両面性です。光の部分、つまりホームスクーリング が 生み出す独立性の積極的な面は、中世カトリック教会の一枚岩からプロテスタントが飛び出して、聖書をもって個々のグループに細分化したように、学校という 一枚岩から飛び出した家族が、それぞれに多様性をもって独立した「教育機関」として機能しはじめるところです。
 ところが、家族ごとに判断を迫られるというところから、限りなく「100%に違い共通点」が互いに見いだせなければ、互いに批判しあうだけで、お互いに 交わりの機会すら保てなくなるという新しい課題が生まれてきたのでした。これは、ネットワークが非常に多い米国でも、そして日本でも、ネットワーク構築を 願うリーダーたちが現在も、これからももつであろう共通の課題でもあると考えられます。これが影の部分です。
 プロテスタント教会は、カトリックにたいして、プロテスタントは独立性が強くなるため、聖公会神学の立場から“カソリシティ(公同性)に問題がある”と 批判されることがあります。
 教会形成のために聖書だけをもっていたら万全というわけではないのです。それと似た問題は、ホームスクーリングのグループ化もしくはネットワーク化のな かに生まれてしまうのでした。つまり、ステンドグラスを構成しているひとつひとつのガラスは枠のなかで意義を発揮します。ところが、大きな枠から引きはが された後、ガラス片をくっつけて別のものをつくるのがとて難しいという現象に似ているでしょう。
 ホームスクーリング相互の協調関係の構築が難しくなることで、自分たちの子どもがホームスクーリング時期を終えた後、ネットワークが成長したり、次世代 に継承することもできなくなるのです。いえ、自分たちの家族だけが良ければいいなどとは思っておられない家族がほとんどなのですが、リーダーシップが失わ れ、ネットワークのもついくつかの課題をかかえはじめた後、解決を模索していくところまで到達できないまま、燃え尽きてしまうのです。