Tokyo 9月22日(土)
         
 ノアやアブラハムが主に受け入れられた生き方をした結果であり、神がどのように 人を扱われるか、人を恵まれるか呪われるかは、主がどのように人を“選ばれるか”を判定した結果であるというような聖書の読みかたをすると、“木を見て森 を見ない”誤りに陥ります。
 主を愛すれば愛するほど、主はそれにたいしてそれ以上の愛をもって報いてくださるという記事は、(ナルド油で主の足を洗ったマリアの例など、いちいち例 をあげませんが)、キリスト者のもっている希望の一つです。努力したことにたいして、報いてくださるのです。しかし、それは、私たちが主を喜ばせようとい うことより、主が私たちを喜ばせ楽しませようとしてくさださっているところに発端があります。
 私たちが主を動かしたのではなく、主は創造のはじめからひとつひとつの造られたものを人を喜ばせ楽しませようとして創造しておられるといえるからです。 信仰にみ心を留めてくださるというその信仰さえ、自分たちのものではなく、“神からのギフト”であるというのが聖書の教えです。
 人が生きるとは、最初から恵みの結果として与えられているのであり、とりわけ信徒にたいしてはご自分の息子であり娘であるものとして取り扱ってくださっ ているのでした。人が努力した結果が報われるとみられたとしても、そのすべては神の恵みなのです。
 神はそのように“呪いと祝福”について選択を人生に用意されていると、人にあきらかにされていない主のご計画について、人の思いこみであれこれ決めつけ るような錯誤に陥ります。聖書は“すべての人が救われる”とも教えていないし、“人が呪われることはない”とも“地獄はない”とも教えていませんが、主が 本来罪のなかに生まれ、祝されるべきでない人を祝され、恵まれているのであれば、残るは感謝のみであり、バッハのミサ曲にみられるように「私をわたしを憐 れんでください」と願うしかないのでした。
 「ギブアンドテーク」をひとつの法則のようにみなして、たとえば献金額が多ければ多いほど恵みが大きくなるとかは、カトリックへのルターの批判をもちだ すまでもなく“古くて新しいパリサイ主義が生み出した毒です。それでも、“まるで主が祈りの結果動いてくださったとしか思われない熱心な祈り”はあるで しょう。あれは人の熱心さが主を動かしたのであると。人は罪深いので、すべては主の恵みによるとはみないで、自分の熱心さが恵みをもたらしたと考えてしま うのです。自分が優れた神に選ばれた器だから、すばらしい会堂が与えられたとか。
 聖書に従っていると自他共に認めていながら、気づかない隠れたところで増殖した異なる原理(福音)によって動かされるとき、そこにみられるのは前進では なく後退です。
 過去に選んだ事で、現在が縛られるという“因果関係”もまた、いろいろな諸思想や諸宗教にみられる考え方です。もし、過去に異なる選択をしたらきっとこ うなるはずはなかったなど。自分の幸せだけを中心に考えていくと、結婚は幸せだけをもたらすのではなく、別の苦しみをもたらすとさえいえるのであり、誤っ た選択をした・・・などという考え方がはびこるのでしょう。結婚についていうと、神のご計画に従って男女を召されるところに起因しています。人のめから偶 然の出会いだったり、紹介されたりという「二次的原因」によるとみえるかもしれませんが。
 主のご計画と主の恵み深さが聖書によって示されているすべての原理の源です。数学や物理学の法則も、神でもない人でもない“中立”が生み出した偶然の産 物なのではなく、神の人への愛のあらわれです。数学者や物理学者は、神がいかに人を愛されてきたかを追認するだけであり、新しいことを生み出すことはでき ません。