Tokyo 9月18日(火)
         
 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、 神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(コリント前 1:21) 

 宣教のことばとは、教会で語られる説教を意味しているのでしょう。“名説教家”などといわれたり、優れた説教として注目されることは好ましいのでしょ う。そのような説教集を魂の糧とすることは可能なのだと考えます。
 ところが、主のご計画そのものからすると、“良い説教をするから人が救われる”という考え方にたいして聖書的な修正を求めさせるのでした。いえ、説教は 聖餐とともに、礼拝の中心に位置するのであり、説教を担当した者は、牧師であれ宣教師であれ、伝道師であれ長老であれ、全エネルギーを費やして準備しなけ ればなりません。その上で研究発表のようではなく、魂を養うメッセージとされるように全力を尽くさなければならないのですが、説教そのものが役に立つかど うか、それが説教の「発注者」である主の心や期待を映し出しているのかどうかが最終的に問われるのでしょう。
 パウロがアテネのアレオパゴスで説教したとき、“どうせ真面目に聴いていないだろう”だとかいういわば斜に構えたような態度はとりませんでした。ところ が、僅かな人が回心に導かれたものの、聴いた数多くの人々には“失笑”が生まれていたのであり、“戯れ言”とみえたのでした。引き起こされた事態は“失 敗”なのではなく、「主のことばを受け入れない」というところに、主の裁きが来ても、言い逃れができないようにされるという、宣教のもうひとつの面があっ たのだといえます。
 今風にいうと、「聖書的ファンダメンタリストのコチコチの頭で、自分だけが正しいみたいなことをいくら言ったとしても、多元主義の世相に慣れ親しんだ現代人の心を捕らえることはできるはずはない」と いうことでしょうか。
 最初から、主のとられた方法は、世の最も優れた知恵に働きかけて、人を救おうとされたのではなく、世の人から「無学な人々」と蔑まれ、ガリラヤから良い 人材が出るはずもないといわれいた地方に生まれ育った弟子たちによるのでした。主が主権を発揮され、人が栄光を受けないため、宣教の結果、“あの説教はす ばらしい”“あの説教者はすばらしい”といわれるようになり、人々が“良い説教を聴くために集う”、たとえば優れた演奏家のコンサートにお金を払うよう に、良い説教に感動したお礼として献金をするなどとなると、その説教はキリストのものではなく、世の異質な体質をもっているのだといわれるべきでしょう。 わたしは名演奏家のコンサートで生演奏を聴きたいと切望することがありますが、それと説教への期待が同一視されてはなりません。
 「わたしの天の父が植えられなかった植物は、すべて根こそぎ引き抜かれてしまう」(マタイ15:13)を心に留めなければならないからです。
 説教の質は徹底的に高められるべきだと考えますが、主に帰させるべき栄光を、説教者を“光輝かせる”ようになると、宣教においてあるべきところから歪ん だ道に入っているとみなされます。“この教会で優れた講解説教がおこなわれる”ということで人々が集っているとしたら、すでに〜教に変質し、“キリストの 教会”とは呼べなくなっているとみなければなりません。
 聴いている人の心の板に刻まれ、聖書への関心を引き起こさせ、信徒を聖書の学びや熱心な祈りと奉仕へと導かれるとしたら、それをしているのは人の力や知 恵ではなく、聖霊の働きによります。
 敬虔な生き方は迫害を招きます。迫害がないから宣教の質が悪いとはいえません。しかし、現在、中国地下教会にたいして、共産党政府からの圧力が強まって いると伝えられる昨今において、そこで、ほんとうに魂を動かすような真摯な説教が語られているものと推察されます。