Tokyo 9月13日(木)
         
 パ ウロがアテネのアレオパゴスでおこなった有名な説教について(使徒17章)。説教の結果、数名が回心に導かれた以外、そこに教会が形成されるなどの“成 果”がみられないため、失敗だったという意見があります。パウロがアテネでおこなった説教の“結果”が失敗であり、その後の出道活動にさえ、その失意の心 が尾を引いているとまで。
 このような聖書解釈を受け入れることができない理由は、以下の通りです。
 まず、説教の結果、信仰に入った人が数名いたのであり、(17:34)、大多数のアテネ人は受け入れなかったのだとしても、宣教活動そのものを“失敗” と断定することはできないこと。つまり、主のご計画からすると、裁判官デオヌシオなどの高名な人ばかりでなく、数名信仰に入らせるという目的は達成したの であり、主の側にあった“目的”からすると、語らえた福音に対して、反抗したり、理解できているにもかかわらず受け入れないという事が「主のご計画」に含 まれていて、聴いている人々の心がかたくなにされて、やがて来るべき“さばき”にたいして言い逃れができないようにされるという意味で、アレオパゴスの説 教が用いられたのだといえるからです。語られたみことばは、無駄に地に落ちることは絶対にありません。選択のチャンスを与え、決定的な裁きに際して、言い 逃れの道を無くすことが主のご計画でもあるといえるからです。
 聖書に従って、カトリックの教義のひとつである万人救済論を排斥しなければなりません。キリストの贖いの業が適応される範囲として、どんな罪を犯したと しても、救われるとは教えられるべきですが、すべての人が結局救済されるというのは「地獄を否定する」のと同じ間違いです。ヒュマニズムを混入させている のではないでしょうか。いえ、たとえばパウロによるアレオパゴス説教を嘲った人々にも救いがあるとはいえるかもしれません。人生のなかでチャンスは一度し かないとはいえないからです。福音を拒否し続けた結果、彼らに裁きがもたらされることは言い逃れができないでしょう。その意味で、救いの道をあえて閉ざす ということが「福音宣教」のもう一つの目的にあるといえます。
 パウロのアレオパゴス説教について、それを“失敗”と断定できない理由のもう一つは、聖書解釈や、地上における信仰生活を“成功失敗論”という人為的な 議論を紛れ込ませている点。たくさんの人が回心に導かれると成功。そしてわずかな人しか回心しないと“失敗”というものごとの考え方そのものが世俗化して いるとみなされます。現代人のビリーグラハムへの評価の仕方にもみられるのであり、“パウロよりたくさんの人に宣教したからパウロより優っている”という 考え方が、いかにパウロの考え方とずれていることでしょう。
 教会形成に導かれ、たくさんの回心者が与えられるのは祝福であり、感謝すべきです。しかし、見える成果について成功失敗論を紛れ込ませるとき、聖書や聖 霊の働きと無関係な世俗のプラグマチズム(功利主義)が入り込んでいるとみなされるべきであると考えます。