Tokyo 9月12日(水)
         
 世 の人々の求めてやまない「男らしさ」も「女らしさ」も、いずれも主からの賜物の一つとみることができます。
 たとえば「女性の美しさ」について、聖書はどう言っているのでしょう。
 聖書のなかで、外見の美しさに言及されている女性は、ラケルでした。ラケルは外見がすばらしい美貌の持ち主であり、姉のレアと比較して際だって美しかっ たと聖書が記録しています。(創世記29:17−20)
 ラケルの美貌は、夫ラバンの心を引き留めることになり、その点について、ラケルは自分に備わった“アプリオリ(先験的)”な賜物であったのですが、レア はラバンからどちらかというと見向きされないような外見をもっていたといえるのであり、夫の心は常に妹のラケルに奪われたままだったのでした。
 姉のレアが次々とラバンの子を産むのに対して、妹ラケルは子に恵まれず、結局末子のベニアミン(ベンオニ・・つまり、わが苦しみの子)を産んだとき、死 に至るのでした。ラケルの美貌は夫の心を引き寄せたものの、それゆえに幸福だったといえない最後を迎えたのでした。
  
 創造のとき、エバの美しさは「はじめから美しさを装わせてくださった」という、他の動植物に備わっている美しさと同質の、つまり「神の創造のみ業の一部 である」とみることができるのでした。
 エバには、男の気を引くために美しくなるための努力を必要とせず、エバの美貌はアダムにとって非常に好ましいものであり、創造のはじめから備わっていた 賜物であったとみることができます。
 主イエスは「野の花がどのようにそだつのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎ もしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の 草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方はなおさらのことではないか」(マタ6:28〜30)」と語られ、人の手が加え られていない自然の草花の美しさは、もともと創造のはじめから備わっていたのであり、美しさは、創造の業として、飾りとして備えておられたのだとみなされ るのでした。
 動物たちや草花には、「主の美的センス」が遺憾なく発揮されているのであり、女性の外見の美しさは、化粧や整形など人の手によらずとも、はじめから備 わっているのだとみることができるのでした。
  男性の美しさも創造のみ業であるとみることもできるでしょう。しかし、とりわけ女性ははじめから美しく創造されているとみることができます。
 罪が人のなかに入ったとき、エバは禁じられた木の実について「目に良く」と、外見で判断しました。アダムは外見で判断しなかったとはいえないのですが、 騙そうとする蛇が女性の弱点を知っていたとしたら、アダムよりさらに、外見でものごとを判断しようとする傾向が強かったのでしょう。
 聖書は、創造のみ業の確かさや完全さの評価を「女性の外見の美しさ」にも広げるているものの、外見の美貌には信仰という内面の美しさに比べて相対的な価 値しか与えていません。
 たとえば次のことばによれば、内面的な信仰の輝きにたいして、外見の美しさをより尊んではいるとはみえないのでした。
  箴言31:30    麗しさはいつわり、美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。
  
サムエル上 16:7 人はうわべを見るが、主は心を見る。
  
美しさは主からの賜物です。
  しかし、外見の美貌を誇らず、主を畏れ尊んで生きるという、人の目にとまらない内面の美しさを求める生き方のほうがはるかに優っています。