Tokyo 9月4日(火)
         

 放射能が日本社会にもたらす隠れた問題は日に日に深刻化していて、実態はとてもオリンピックなどに浮かれている場合ではありません。政府が隠蔽し、そし て汚染された食品を流通させているからであり、どうやら本気になって日本民族をつぶしにかかっている輩がいるという意味でしょう。

 聖書のメッセージにきいて、そこから直面している現実の意味を尋ね求めるのにたいして、自分の言いたいことに聖書を引き当てるようにするとき、聖書に 従っているようにみえながら、じつは聖書を指針としているというより「常識の哲学」のために聖書を利用しているに過ぎないという現象がみられます。
 聖書には現状を変革させる力がもともと備わっているのですが、「常識の哲学」に従った現状追認型の聖書の取り扱いに慣れてしまうと、現状にチャレンジを 与えるような聖書メッセージが目に留まらなくなり、心にも入らなくなり、魂を養う力を失い、ついに塩気を保てなくなるのです。
 “自分の言いたいことにあわせて聖書を引用する”とか“自分にあわせてイエスマンの教師たちを周囲に侍らせる”といったことが惹起されます。困ったこと に、メッセンジャーには結果として聖書を冒涜しているという自覚がありません。
 聖書そのものからメッセージをくみ取れず、自分が養われないばかりでなく、メッセージを聴いている人たちの魂をも養う力を失っているにもかかわらず。
 「常識の哲学」と呼ばれる場合もあり、やや堅く「聖書を衣につけた実存主義」という言い方もできるでしょう。
 現実は神が支配していると頭では理解しているのかもしれませんが、現実を変えるような聖書メッセージをくみ取ることができないばかりか、あえていえば聖 書のメッセージを事実上無視していたり、わからないところは読み飛ばすくらいしかできなくなっているのでした。
 この病は、じつはクリスチャン生活や教会にたいして非常に深刻で絶望的な事態を生み出します。
 まず、自分自身の魂が取り扱われていなければ、誰かの魂を取り扱うようなメッセージを語ることはできないでしょう。

 第一に〜、第二に〜、第三に〜とか、理路整然と項目を列挙した論理的表現は聖書に見ることはできません。
 聖書が現代人の好む評論や学術論文やエッセイストの文章ではなく、様々な文章形式をもつからでもあります。たとえばパウロの場合は常に書簡というかたちをとります。
 それゆえに、ひとまず現代神学、リベラリズムを基礎から正しく学ぶべきです。
 当たり前かもしれませんが、プロテスタント神学はカトリック神学とどこが違うのか、アナバプティズム神学とどこが違うのか歴史も学びなおすべきです。熱 心な福音主義者にときどきみられるように、ひたすら「カルビン主義への紋切り型の批判」にあぐらをかくのではなく、偏見をすてて謙虚に「キリスト教綱要」 を丁寧に時間をかけて読んでみてはいかがでしょうか。
 聖書を読むための時間がなくなる・・・ですか。問題はその「聖書の読み方」にあるのでしょう。何時間かけても、間違えた読み方をしていては、はっきり申 し上げますが、あなたがもし、小説とか論文を読むようにしか聖書を読んでいないのだとしたら、そこから先、何一つ前にすすむことはできません。
 リベラリズムがもつ“実存主義”はひとつは敬虔主義から派生した体験主義をベースにしていると指摘されてきたのですが、いまやかたちをかえたリベラリズ ムとしての「常識の哲学」が蔓延しており、聖霊の働きがリアルに感じられない礼拝が増加しているのではないでしょうか。
 常識的でなければ腑に落ちないとか、いえ、聖書メッセージが常識と共鳴することもあるでしょう。けれども、常識は常に聖書的メッセージによって変革され なければなりません。
 ひとまずは、現代神学とはどんな神学なのかという思考回路の構造を謙虚に学び、その上で、ヘブル語やギリシャ語といった聖書言語についてできるだけ緻密 な釈義をふまえ、聖書の指針と“聖霊の内なる声”にしっかりと傾聴し、そして生活全体を聖書に聴き従わせようとしているなら、そこに人の知恵や説得力によ らない、聖霊の力があらわされた教会形成に繋がる基礎が生まれるのだと考えます。

 日本が真実に変革されるときがくるとしたら、「沖縄」に学び、「沖縄」に倣うところからはじめられるべきだという確信は変わりません。