Tokyo 9月3日(月)
         

 小説や映画、ドラマなどに“史実”を追い求めるのは愚かです。歴史を探訪したドキュメンタリーではないので、歴史的なフェイクは当然であり、史実に基づ いたほうがおもいろいという程度でしょう。それで、内村鑑三のように“わたしは小説を読まない”というのも、ただの作り話に心を奪われたくないという意味 でわからなくもありません。そうですが、歴史家は、資料を駆使して歴史のなかで何がおこったかを記述していくのですが、作家の想像力は、資料をベースにし ながら、歴史家が及ばないような“史実”もしくはリアリティに肉薄できるかもしれないのです。
 作品名や作家の名は忘れてしまったのですが、オウム事件がおこるはるか数年前に、小説というかたちで、あのような事件を予測していた作品があり、小説家 の想像力のほうが、証拠や歴史的検証を経なければならない学者のもつ推論を超えリアリティに肉薄しているとみることもできたのです。
 それでも、“動かぬ証拠”をつきつけてはじめて動く法が支配する領域もあり、小説家だけがすべてではないでしょう。小説家に見いだされる想像力を軽くみ てはならないと考えます。同じ事は映画やドラマでもいえると考えます。もともと、華から小説やドラマや映画は荒唐無稽な作り話。それでも、内村さんのよう に一蹴せず、物事を考えるためのヒントとして役に立つとわたしは考えます。
 もしも、〜なっていたら。歴史のなかにもしも〜があったら。現実離れした空想だから価値はないというのではなく、何かを考えるためのヒントを得ることは 可能だといえます。
 聖書についてはどうでしょう。
 とても残念なことですが、これを“人の想像力によって創り出された作品に過ぎない”としてしか受け取れない人がいると伺います。
 聖書を学ぶ、たとえば神学とはそのような学問。
 わたしは聖書に親しみ、神学をいとなむことこそが最も現実的であり。いろいろな現実を学ぶための学問全体の基礎となりえると考えます。


 安部さんが俳優を礼賛していたとか。俳優という職業がひとつのりっぱな職業であるというみかたに反対するわけでありませんが、「あこがれの仕事であると か、尊敬すべき職業である」といえるのかどうか。わたしにはやや躊躇いがあります。