Tokyo 8月24日(金)
         

 「世界の希望はカルビン主義にのみ存在する」という表現について、伝統的なカルビニストたちの核心部分には、わたしも心から同意します。ルターによって 光があてられた、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみというキリスト教の根底にある思考形態に基づいて、それをもっとも明確に体系的に記述する“賜物”を与えら れたカルビンと、その聖書主義を受け継いだカルビンの後継者である神学の徒が残した著作群の多くは、荒海を漂流する船にとって“燈台”が命の綱であるのと 同様に、具体的な例をあげる暇(いとま)がありませんが、キリストにある救済の道を示す頼りがいのある道標だからです。
 「カルビにズムにこそ希望あり」はカルビン主義の伝統を受け継いでいる信徒の標語のようなものであり、しかし同時に、これほどたくさんの誤解と偏見を生 み出してきたことばも多くはないと考えます。 
 カトリックにたいして、プロテスタントキリスト教とは何であるかを示すという意味で、わたしも、カルビンの著したキリスト教綱要に勝る書物は存在ていな いと思います。いえ、日本語訳のカルビンのことばが現代人にとってわかりやすいとはいえず、洗練されているともいえないかもしれません。それでも、あえて 単純化していない修辞法をつかうことで、事柄を常によどみなく正確に表現しなければならないという気概を感じるのです。俳句とかと違う、読み手に勝手な想 像や憶測をさせない書き方を選んでいるのだと感じます。それがカルビンの人柄さえあらわすのであり、“書物を残したい”とか“歴史に名を刻みたい”という 野心と決別した、それ以降の時代に生きる人々のために主から召された器であるという言い方も、いえ、それさえ誤解を招くような気がするとはいえ、間違って いるとは思われないのです。
 カルビニズムがカルビンを“教祖”のように崇拝せよというのではなく、カルビン主義は聖書主義とも“聖書信仰”とも言い換えることができると考えます。 それではなぜ聖書だけを全面に出さずカルビンの名をあえて出すのかと指摘されたとき、宗教改革という時代を歴史認識の基礎において聖書を学ぶときの標章の ような言い方だともいえます。
 「聖書信仰」を歴史的視座をまったく顧みないでいうとき、聖書主義はアナバプテストの伝統にもみられたのであり、たとえ聖書を表記するキリスト教であっ ても、かならずしも聖書の原理に従うといえないのではないかという“批判”がみえているのであり、それもひとつのカルビン主義の伝統のようなものです。 (たとえばトレティニの書き方は、カトリックにたいしては当然としても、アナバプティズムへの批判はきわめて明快です)
 カルビンを教祖としているのではないということを言いたいために、あえてカルビンではなく聖書主義ということもあります。
 それと、カルビン主義のなかに歴史的に内在する“認識論”の問題が不可避。つまり、“世界の希望はカルビニズムに”というとき、たとえば語られる社会思 想史のなかで有効な言い方かもしれなかったとしても、一般平信徒や、信仰をもたない非キリスト者にとって“聞き捨てならない傲慢なことば”としか受け止め られないだろうと予想するからです。伝道や宣教のコンテキストのなかでカルビン主義者たちがみせてきたのは“理性主義”が生み出す“滓(かす)”のような 残存物であり、たとえばアサ王くらい偶像を破壊して名をあげた王はいなかったとしても、アサ王の内面にみられた“偶像礼拝”を生み出したように、敵対心や 批判精神を積み重ねていくと、「闘っている相手と同じ精神的基礎が生み出され、やがて寄生虫のように見えないところで巣をつくって増殖する」のでした。
 カルビンが残した著作の影響から生み出されているカルビン主義は、理性主義でつかわれる道具としてのテクニカルタームを思想的武具とするのですが、パウ ロがエペソ書で示している“武具”とは異質の、つまり世の人たちが唯一のよりどころとしている理性主義を武具としたとき入り込んでいる障害物があるという “内省”を経て、聖書の示す方向に軌道修正しなければ、「カルビン主義こそ世界の希望」と言い続けることに説得力をもたせるのはとても難しいとわたしは考 えます。


 俳句はわたしの趣味のひとつ。といっても、気の向くままに創作するため、忙しくてこのところ何年もつくっていないのですが、ことばの“描写”を、読み手 にも想像させ、ことばひとつで、あたかも疑似体験のような共有が生まれるというのは、古典的であり、そして最も新しい日本の伝統です。
 日本語が生み出す、実に楽しい世界です。

  サルスベリゆらり揺られて昼行灯

  府中あたりの街路に植えられているサルスベリが非常に美しく見事でした。まるで白やピンクに彩られた行灯のようにみえました。
 もっとも「昼行灯」ということばは怠け者や役立たずといった蔑称としてつかわれるとネットで調べて知ったのですが、蔑称とは別に、四方に垂れ下がった花 のついた枝々が風に揺られる様子は、ただの道なのにまるで行灯が据えられた花道のように感じられたのでした。