Tokyo 7月8日(日)
         
6日、オウム 真理教の教祖・麻原彰晃死刑囚ら7人の死刑が執行。
 死刑制度の意味。
 カルト宗教と、カルトに引き寄せられる現代人の心理という課題。
 国家転覆をめざす団体が存在することを否定できないこと。
 課題は山ほどあるでしょう。わたしが心に留まったのは、麻原の子どもたちは、麻原と無関係な人格であるにもかかわらず、学校入学を拒否されるなど社会的 排除を受けなければならなかった事実。大きく傷づけられたのは、麻原と同じく死刑を受けた6人とその家族についてであり、その精神的な闇といえば、底知れ ぬ闇の状態であるというのは想像を超えたことです。
 かつて、連続少女殺人事件を犯人の宮崎勤について、悲惨だったのは、殺された少女らの家族ばかりでなく、宮崎勤の家族であり壮絶な状態におかれることに なったのはすでに知らるようになった事実。
 殺された少女の家族に、「殺人犯を何度殺しても殺しきれないほどの恨み」の心が残されるのだとしたら、家族にとっては、“絶対許すことができない”とい う恨みの心に支配される“暗黒”に留められることになります。坂本弁護士ご一家とそのご家族にとっても、犯罪者とその家族の問題は、おそらく社会的ケアと いう意味で、民間では手に負えない、国に負わされている責任の一つなのかもしれません。
 死刑が犯罪抑制力として機能していないのではないかという議論がありますが、犯罪を受けた側の家族の心の闇のことを考えると、死刑を廃止しろだけでは済 まないような気がします。
 死刑制度が、いろいろなところで私刑(リンチ)が繰り返されるような状態から社会がとりあえず解放されるための「弛緩装置」というみかたがあるのは納得 できます。人が人のためにできることには限界があるのであり、「遺族が受けた恨みの心を国がはらしてくれる」としたら、そのあたりが死刑肯定論の論拠なの でしょう。
 遺族のことをリアルな同情に近づけようとしても無理であり、苦しみの質とえいば、他人がどうしても想像できないのです。
 遺族には、たとえ死刑がおこなわれたとしても、消し去ることができない闇が“傷”として残ります。いえ、オウム真理教でさえ、そのような“心の傷”を癒 してもらいたいと願って入会した人も少なくなかったのでしょう。それで“宗教とは恐ろしいものだ、いやキリスト教だって”という飛躍した議論に引き継がれ るのでした。
 わたしもキリストによって心の傷が癒されたものの一人ですから、それがすべて騙された結果の幻想だったというのは、そう決めつけたい人がいるとしても、 やはりとても残念なことだと思います。キリストにある癒しはリアルだからです。
 わたしの受けた傷は、弟に与えた重度の火傷でした。弟の背中の傷跡はいまだ残るものの、わたしが加害者として少年時代に受けた心の傷は完全に癒されたば かりでな く、「そこから恵みの泉が湧きあふれ出るようになった」のでした。
 麻原の教えに心酔して、幸福をもたらすと信じて、内実は狂気のような人生に入ったのだとしたら、加害者であっても同時に被害者としての一面をもっている というのはどう考えたらいいでしょう。ところが罪がもたらす継承の原理を簡単に扱ってはならないというのも事実なのでした。たとえ死刑になっても、麻原の 考え方が完全に廃れ、「幸福なステージに送り込むために殺人を実行する」という考え方の根絶にはならないからです。そして麻原の“遺体”はただの遺体では なく、教祖のそれであり、世界の仏舎利と同様、偶像化され神格化される要素を含んでいます。
 冒頭の問いについていえば、加害者は加害者、子どもは別といえるほど軽くはないのですが、その一方で、キリストにあって、親がどれほどの罪をおかして も、子どもに個別的罪責は継承されないというのも、聖書にたった信仰なのだと考えます。
 オウム真理教がたとえ、求道していた人々に“心の安堵”を与えたのが事実だったとしても、“麻原の髪の毛を1万円で買えた”といって喜ぶのが幸福ではな く、狂気が言わせていると気がつかないのだとしたら、救いは偽物であり、救いはなかったといわれるべきでしょう。
 どのような宗教にも存在が許されているのであり、宗教や信心を否定することはできないのです。けれども、一つの信心や思想を絶対として、あとは迫害され るべきと考える信心がもしあるのだとしたら、国家としてカルト認定したり、活動制限したりというというのは、新しい悲惨を産まないために、一般的認知のた めに必要かと思われます。そこで生まれる問題は、一旦国家として動き出すと、暴力装置が後戻りできず、悪い政治が権力の座につくとき、人々を迫害するよう な恐怖政治が生まれてきた事実でした。北朝鮮も当初は、日本支配の悪から国民を解放するという看板を立てていたのです。