Tokyo 6月29日(金)
         
世の光ではな く
 
 「世の光り物」で人々を引きつけておいて、それができるだけたくさんの人に福音を語る機会となるなら“いいじゃないか”という。世の人々が憬れ、たくさ んの人の注目を集めるところに福音が語られるなら、動員のためには手段は問わないとか。
  いったい、そんなことを聖書のどこに学べるというのでしょうか。
  世にあるキリストが人々の注目を集めたのは、パリサイ人たちのような演技ではなく、人を救い人を助けるための奇跡によるものでした。いわゆる世の成功 者・勝ち組たちがキリストを告白するのは良いことです。たくさんの世にいう身分の高い人々が教会員に加えられていたからです。けれども、「世の光となりな さい」と主が言われたとき、「世の光りもの」を持ち出して人々の注目を集めるようにはされませんでした。
 キリストに帰せられるべき栄誉を、自分の懐を暖めるための材料にしている詐欺師なら、きっと世の光り物で人々を引き寄せておいて、集った人たちの心がキ リストのもとに寄せられる直前に、「主よ、あなたの働きはすばらしい。けれども、ここから先はわたしがやります。今わたしがあるのはすべてあなたのおかげ です。ありがとうございました。」と人々の注目を自分と自分の栄誉に引き寄せているのであれば、それこそが偽キリストであり、「羊の皮を被った狼」です。
 たくさんの人が“キリストの福音に耳を傾ける”ためなら、どんな手段をとってもかまわないなどと、いったい聖書のどの箇所に語られているのでしょうか。
 “優れた学歴”。・・・そうですか。あなたに賜物を与え、そのような学問を与えられた主の名は称えられるべきです。
 “凄い職歴”。・・・地位もお金も、すべて主の賜物です。ところで、あなたは、自分の力を誇示する以外に、主のために何をしてきましたか。
 “たくさんの人に洗礼を授けた”・・・。主の名を称えます。洗礼を授けた人々の心に、あなたの名が刻まれていないことを祈ります。
“りっぱな会堂をたてた”・・・。主の民に、たえず主の名をほめたたえるための場所を与えられた主を褒め称えます。
                  会堂にあなたの名がつけられていないことを願います。