Tokyo 6月28日(木)
         
 「型」という文化
  時代劇などをみると、むかしの日本人の、とりわけ高級武士の世界がいかに作法や型に縛られていたかを推察できることがあります。武士以外の庶民が「作 法」に縛られていなかった分、生活の上の自由度が高かったのかもしれません。
 中身や本質がどうかというより、形や“格好”だけが一人歩きして、人や事物への評価とされる弱点があり、内実よりどう演技するかが大切で価値あることと みなされるのだとしたら、日本人の貧困さの起源もそのあたりにみられるかもしれません。
  新約聖書・コリント第一13章5節に「愛は礼儀に反することをせず」とあり、相手への礼を尊重することは、すなわち相手を愛する故であるという、つま り礼儀がつくされているかどうかを愛の基準とするのではなく、礼儀という考え方の基本には常に隣人への愛が考慮されていなければならないという意味である と考えます。
 相手への心からの敬意と愛が、礼儀作法にあらわれるのを理想とされるべきなのですが、困ったことに、礼儀作法を知っているか知らないかを“判定基準”と するようになると、そこにも紛れもない“パリサイ人”気質が露見していることになるのでした。
 日本人が礼儀を尊重するというところでも、古来から伝承されている作法が先行するとき、“作法を知らない”“無知”というみえない烙印がいたることろに 貼られ、蔑視の対象とされるのでした。
 出身文化の違いも小さくないでしょう。ネイティブ・ジャパニーズなのか、たとえばコリアン・ジャパニーズなのかによっても、ルーツの違いが日本文化にお いて(具体例は列挙しませんが)違和感を感じさせるような場合もなくはないと思われます。異国の文化や習慣を受け入れ、“人種ののるつぼ”と呼ばれる米国 において、“寛容”が大きな美徳とみなされるのです。そして日本を「多民族国家」と呼ばれる時代は、米国ほどの変化はありえないとしても、おそらく意味が そうとう変化すると予想されます。コンビニで出会う店員のみなさんは、礼儀正しく挨拶し、出身国をほとんど感じさせないような対応をされます。“在留異国 人”への対応をどうするかではなく、出身がいろいろな国である“日本人”が増えると予想されているからです。
 庭をつくる仕事をして、日本文化が継承した“型”や“作法”を継承するのはものすごく大切なのではないかと思わされています。作法や型を相手を見下げて 決めつけるためのルールにするのではなく、隣人愛に基づいて、「どのように型を立て、型を外すか」をわきまえるような素質が生まれてくるのであれば、フレ キシブルで心地よい日本の作法や型を装備した次の世代が生まれてくるのかもしれません。