Tokyo 6月14日(木)
         
 私は、 2002年あたりに以下の文を公にしました。アベが「拉致被害者」と語る度毎に、すでに16年も経過している今も、拉致被害者の家族をめぐる問題提起としては変化がないと確信するに至っています。以下引用。

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不思議なリンク
  
 いつも、暗い話題、ましてや、よく意地悪く週刊誌的といわれるような「他人のあら探し」をしているわけではない。 
 でも、北朝鮮による拉致の事実や、その被害にあわれた方々の報道をきくにつれ、心が痛む。
 それが率直な気持ちである。いや、横田さん(奥様は早くから。そして、最近は、ご夫婦ともに)キリスト者であることをふまえると一層、この問題解決は、 同じキリスト信徒として、現在の私の祈りの課題でもある。
 けれども、私は最近もう一つ別のことで、複雑なおもいにかられている。
 横田さんご夫妻の長い闘いの日々が記憶され、被害者の会が編成されて、互いに励まし合うこともゆるされているのは、幸いなことだと思う。それゆえ「被害者の会」が北朝鮮問題を扱う報道に敏感になっているという側面からして、たとえば「“週間金曜日”が、会の承諾なく、北側筋が用意した当事者との面談を記事として扱って ほしくない」といっておられたのも、報道制限に結びつくのではないかとの危惧のこととは別に、ある意味でマスコミ報道側の勇み足とさえみえた。
 だが、去る12月26日に新しい教科書をつくる会が緊急シンポジウムとして、「拉致被害者家族から話を聞く・対話集会」なるものを開催し、なぜかここで拉致被害者の会の横田さんや蓮池さん兄の透さんが招かれている。この時、主催者側の席には、当然のことながら、「新しい教科書をつくる会」名誉会長の西尾幹二氏や、あの藤岡信勝氏が名をつらねていた。
 これまでの、「新しい教科書の会」の経緯をある程度関心を寄せてきたものの一人としては、きわめて複雑な思いに駆られた。
 全く別々の経緯にあって形成された二つの会が、ここにきて奇妙なリンクをみせているからである。
 どうしてかとおもう。
 つまり、「新しい教科書の会」の趣旨は、詳細は伏せるが、自民党のある有力な政治家筋の肝いりで誕生した。日本のこれまでの外交は、謝罪外交であり、日本民族の誇りを台無しにする「自虐的」なものだという。そのために、歴史教育の、たとえば「従軍慰安婦」や「南京虐殺」などの歴史認識は、民族のプライドを傷つけないようにこれまでの歴史認識を修正しなければならないという。しかし、日本人としてのプライドが大切などというわりには、国際戦争の是非が問われているのに、ただ米国追従だけで、世論攻撃をかわすことばかりで、どこに「プライド」などあろうかという昨今だ。どんな内容のプライドなのかも問題だけれど、この団体は歴史的事実なのかどうかはむしろ究極的には問題にしていない。「“従軍慰安婦問題”など、この国にはなかったのだから、教科書には“慰安婦”などという言葉は、一言たりとも入れない」とまで西尾会長は喝破したことがあった。
 言うまでもないことだが、このように過去の誤りを美化し、歴史的な事実さえ歪曲するような言論は、ドイツをはじめ欧州の脈略では絶対に生き残ることができない。
 この会の主張は、中国や韓国など、かつて日本の植民支配のもとで苦しめられた近隣諸国から非難の対象となったこともあり、あの「教科書」を自主的に正式採用しない学校を含めた地方自治体教育委員会も多かった。昨今は、政府公式見解と対峙する考え方とみなされ、アジア近隣諸国からはそれが正確かどうかは別として「極右危険思想」とみなされている。
 ところが、ここにきて、なぜか「拉致被害者の会」とのリンクをみせている。もともと、蓮池透さんは、拉致が世に問われる前からもともと「つくる会」メンバーだったという情報が確かな筋からのものとしてうかがった。長野県の田中知事が問題視したのもこの奇妙なリンクについてであった。このときのやりとりでどんなコンテキストからなのかは定かではないが「田中さんは、人間ではない」など発言も、被害者の会筋からのものだ。横田さんからなのかって?
 どうかな、まさかそんなことはないだろう?
 少なくとも良心的な立場で発言している横田さんご夫妻と、たとえ蓮池さんが被害者の一員であったとしても、彼の“くちきき”に始まって、拉致被害者への国民的同情に便乗して、「新しい教科書をつくる会」に失地回復させるリンクが存在していることに深い危惧を覚える。

 私は、BJUのリッチコールさんに、「日本には聖書の視点に立った正確な歴史教科書が必要であるので、そのためにいつも祈らされている」と伝えた。
 彼からの印象深い答えを、ここでも紹介しよう。
 「是非、祈りましょう。主が必要を満たしてくださるでしょう。主は求めに応じられる方ですから、もし必要なら主の器も備えてくださいます。」