Tokyo 6月10日(日)
         
  「幸せを 求める」ことは万人に共通の、人として当然のことです。
  ところが、「幸せ」が主観的な言い方であり、感じ方にかかわるのだとしたら、幸せ観を追い求め続けることで“幸せの実感”が、いつも自分中心となり、 心 の幸せを実現するための「手段」としてキリストを追い求めるということになりはしないのでしょうか。
 幸福を追い求めさせる宗教というなら、ほとんどすべての信心がそのような動機づけをもっているといえそうです。
 キリスト者も、 父としての神が、子とされた信徒のために、親が愛する子どもの願いを何でも叶えたいと思うように、人の心の中にある願いを神が実現してくださるというのは、主の心と大きく外れているとは思われないのです。
 ところが、人の弱さや罪深さが入り込むとき、「幸福の追求」が、自己中心となり、自分の願いが届く範囲で神の名を求めるということがないのかどうか内省 してみたいのです。「それだから願わない」のではなく、ありのままを受け入れてくださり、罪深い人のまま、その願いを受け入れてくださるというとき、鍵と なるのは、やはり「父と子の親密な関係」にあるのでしょう。実は、恩知らずのものにも憐れみ深い方であるために、人の側で願いが自己中心であるかどうかわからないだけな のですが。
 神を父と呼び、そして神が自分が神の子として扱われていると認め、受け入れてくださっていると実感できたなら、いたるところに「幸福の追求」が存在する ことにな ります。それは言い換えれば「不幸を減少してください」という願いであったとしても、父である神が、子である私たちが願いをおこすのを求めておられ、そし てそれを実現するように事を動かしておられると信じるのも大切だからです。
 主は叫び求めるものの求めに応じて、大きなことをしてくださるかもしれません。そこで、主の栄光といいながら、見える幸福に満足してしまうとき、見返り が期待される範囲での「主の栄光」であるとか、幸福な賜物をみて、自分を受け入れられている“証拠”とみなす心さえ、正直いうと生まれてしまうのではない でしょうか。
 少し話題は逸れますが、「隣人愛の実践」だけについていうと、キリスト者より優れている人はきっと大勢おられるでしょう。隣人への親切や善行が“喜び” をもたらすと悟ったなら、自分への見返りを何も期待しないで善行を行う人であれば、思想信条にかかわりなくおられるのであり、「主の栄光をあわらす」とい う動機を伴わなくても可能なのであり、「見えるおこない」だけだと、主の栄光となっているかそうでないか区別できないのでした。
 「主よ、私はあたたのために、誰もなしえなかった、これだけのことをしました。」
 「主よ、私はこれだけのことをしたので、あなたからの祝福を受けるに値するものです」とか。
 主のまえに出て、そのような“自慢”など何の意味もないのではありませんか。
 主のみまえに出るとき、自分が自己主張できるような何ものかが自分の属性のなかにあるといえるのでしょうか。いえ、「主よ、こんな罪深い私を許してくだ さい」とか「私がどれだけたくさんのことをおこなったとしても、そのすべては当然すべきことをおこなってきたに過ぎません」とか、いえ、それくらいしか言 えないのではないのでしょうか。「宗教改革者ルター」の勇気ある行動やドイツ語訳聖書、カルビンのキリスト教綱要などは、それこそ誰にもなしえないとおも われる“偉業”と認められるでしょうけれど、本人たちは「なすべきことをした」にすぎないと自覚していただけなのではないでしょうか。
 与えられたたくさんの恵みの結果がどれほどであったとしても、恵みに感謝することがあったとしても、なにひとつ人への自慢の種とはしない、まして人と自 分を比べる材料にもしない、そして主の栄光だけを自分の喜びにできるという信仰が与えられていたら幸いです。
 自分の受けた教育(学歴)のたかさ、華麗な職歴、自分が主のためにおこなってきたあれこれ、自分が開いた悟りの高貴さ。自分が書いた書物。持ち家、高級 な自家用車、自分のすばらしい家族、自慢の子ども、自慢の妻、それらをキリストより誇りとすることは、主の心を曇らせるに違いないのです。いえ、キリスト 者とされたときから、キリスト以外の何ものにたいしてであれ、それらがどれほど尊く美しく、誇らしいとしても、ただキリストのみを誇りとできているのかど うかを問われているのでしょう。
 もしも、「あなたはキリスト以外のものを誇りとしてはいけない」という信仰の態度に抵抗を感じておられるなら、いまだにキリストのすばらしさの全体像が わからないままであるか、それともいまだに幼稚で無知な状態に留まっているのであると自覚しなければなりません。
 そうかんがえると、たとえ「幸せを追い求める」ことが許されているのだとしても、主のご意志とか御旨に徹底して従ったときに、“幸せとは、あとから添え て与えられるものである”という言い方として、格下げされるのかもしれません。いえ、それでも、自分に与えられる幸せの位置が、たとえ格下げされたとして も、人から受ける賞賛や栄誉よりも、人から評価されなかったり、人から蔑まれ、ときには迫害されることさえあったとしても、主が与えてくださる栄誉とその 先に約束されている“幸福”を追い求めていきたいのです。