Tokyo 6月08日(金)
         
 政治とはと どのつまりが“力”なのでした。
 つまり、政治という地平にたてば、数こそがものをいうのであり、個々の正当性を自己主張するのではなく、小異を捨てて大同につくというところで、数の力 を結集しなければならない場面が数多く存在します。
 たとえば、カトリックとプロテスタントの溝を埋めるのはすごく高いハードルだとしても、もしキリスト教という枠組みでとらえるなら、ひとつの政治的課題 だけに絞ることができたら、連携するという場面を実現しなければならないのでした。
 互いに異なる思想や信条をもっていても、一つの目的のために、共闘もしくは共同できるというのは、正義がおこなわれるときの大きな課題なのであり、そこ に求められるのは“寛容”という態度なのでした。
 「あなたとわたしとは、考え方も信条も異なる。しかし、大きな敵を倒すためにあえて異なることをそのまま受け入れつつ、同じ行動をすることを受け入れよ う」という態度は、真に成熟した大人の行動とされるべきなのでした。
 その意味で、自民党や公明党の側に立つ人々がよってたつ考え方は、たたひとつ権力の側にいるという一点なのです。彼らにとっては正義もへったくれもない のであり、金の力と権力の座に居座ることだけが唯一の目的であり、そのために「小異を捨てて大同についている」といえなくもありません。金と権力にしがみ つくという一点において、ものすごくしたたかです。
 金と権力にしがみついているわずかな人たちが、そのためには嘘であれ殺人であれ、不正であれ、どんな汚い手段も選ばないというところでいくと、「悪いこ とができればできるほど、その存在がありがたい」のであり、自分たちの目的のために汚れ役をやってくれるアベのような存在はありがたい“恩人”とさえ見え るのでしょう。
 けれども、「自分たちが存続するためにはたとえ殺人という手段を肯定してもかまわない」といいはなつ集団が、いったい歴史のなかで長く保たれた事例は あったのでしょうか。どんなことが過去に、歴史におこってきたのかを学べるのであれば、悪が悪の性質を維持したまま存続できた事例は皆無であると気づくは ずです。そうだとすると、悪い者は勝手に自滅していくに違いないというガマリエルの信仰に傾いているキリスト者は少なくないはずです。あえて、政治のこと に発言しなくても、悪は悪らしい末路を迎えるに決まっていると。だから「小異を捨てて大同につく」などという面倒くさいことに足入れするのではなく、「嵐 が過ぎるを待て。悪は勝手にほろぶに違いない」といったのが賢者ガマリエル。
 これは、キリスト信仰に基づいているかのように装いながら、理性主義という反キリストの思想がこびりついているに過ぎないのでした。嵐は忍耐して待てば 過ぎ去ると考えて、何も言わずに淡々としていれば、そのうち神様がなんとかしてくれると考えたキリスト者は、かつてナチが支配したドイツにも、大本営が支 配した日本にも存在していました。
 はっきりしているのは、今反対の声を上げなければ、現在の悪政治に全面的に賛成しているとみなされることです。
 今必要とされるのは、「小異を捨てて、大同につく」という、おそらく福音主義プロテスタントには最も難しい応用問題です。
   それにしても・・・わからないのは。あえて、「御子」を「みこ」ではなく、“おんこ”と呼ぶことにした日本カトリック界の考え方。日本語で連想される卑語 や隠語なら、“おんこ”という音から、普通の日本人ならいくつでも連想できてしまうというのに。
 まぁ、そんなこといっているから「大同団結」できないのでしょうね。