Tokyo 6月03日(日)
         
 聖書はただ 読むだけではわからないとか、どう考えても矛盾ではないかと思われるような記事があります。
 分からないということには意味があります。ひとつの原因は信仰の未成熟。キリストを神と信じていないところで聖書をいくらよんでも、腑に落ちるはずはあ りません。「分からない」というのをどのように受け止めるかにもよります。
 「分かるまで待つ」「分かるように理屈を想像する」「分かるようになるのをあきらめる」。いつか信仰の目が開かれてキリストを受け入れるようになった 日、あらためて聖書を読むとそれまでベールに包まれていたような記事のひとつひとつが腑に落ちるようになるという経験は、多くのキリスト者の経験でもあり ます。
 分からないのであれば、納得できるような理屈を案出してみたらどうか。暗いなかで輝く光の光源が何か特定できないので、あれこれ想像して、あれはランプ の光、いや電灯か、いや何かの未知の光源だなどというのはおもしろいですが、しかし、事実から乖離して、想像や空想の世界を頭のなかで描いているに過ぎな いという場合が多いでしょう。もしかしたら、数々の想像のなかに真実が含まれているかもしれませんが、真実であるという確証はありません。
 「聖書で“復活”といっているのは肉体の蘇生という意味ではなく、恩師の教えや考え方が死後にも弟子たちの間で大切にされ、まるで恩師が生き ているときと同じような継承がなされたという意味だ」・・・などとやってしまうと現代人に受け入れられるというよりも、聖書も神の業も何も信じないという のと同じになります。
 聖書の分からないところや矛盾している事が多いことをふまえて、ヘブル語テキストの“書き方”を分析して、もともとつかわれた資料を類推するというやり 方が流行しました。聖書テキストは「編集」されてできたのであり、全体的にストーリーとして完成させるための編集作業の“痕跡”を追求しようというのです が、科学捜査官のような時間がごく近いものではなく、数千年の時間を経ているため、その多くが「類推」にしか過ぎないというのは最初から自明のことなので した。
 学者によって「〜資料」というひとつの文体傾向をもったいくつかの文書を、編集者があれこれ集めた“パッチワーク”みたないなものだが聖書だという考え 方が進化論思想の影響を受けたベルハウゼン学派と呼ばれる人々によって流布しました。
 「類推」を「類推」で構成しているものがやがて“断定”へと進む過程は、“きっとこうであるに違いない”“いやきっとそうだ”“いや、これこそが真実 だ”という断定に結びつくプロセスに似ています。やがて、ウォフィールドらによって指摘されたように「聖書は聖霊によって記録された書物」という信仰の基 礎を揺るがす結果になり、現代キリスト者のなかに聖書を人の書いた文書と同じ扱いを躊躇わない風潮を生み出したのでした。
 「聖書が矛盾しているのか」と思われるとき、人の認識の限界をふまえて、「分からない」ことは「分かるようになるまで待つ」とか、聖書の別の箇所を調べ てみるとかしていくと、それまで矛盾と思われていた箇所に解釈上の光があてられることがしばしばです。
 わたしの場合“説教ネタ”の多くはそのように見いだされるものなのですが、捜し物が見つかった喜びに似て、分からないことが分かるようになるという発見 の喜びはいつもすばらしい。
 やがて死の向こうにおいて、すべてがあきらかにされるのでしょうけれど、「誰が聖書の著者か」というところで、ある人のように伝統的な見解を見捨てて、 「〜資料」だの「第三イザヤ」だのと分断してしまうところから生まれる迷いの森に入り込むよりも、何もかも分からないことだらけの状態におかれているのを 知って、聖書の与える統一性を受け入れるという伝統的に留まり、近代主義者からは“おろかな賢さ”と呼ばれるほうを選びたいのです。