Tokyo 6月02日(土)
         
 教会の決め 事ではなく、良心の裁量の範囲で各人が決めるべき事柄。
 アデア・フォラとも呼ばれます。語源など未調査ですが、改革主義信仰の特色として、“禁酒禁煙”等の事柄を、教会の決定によって、「飲んではいけない」 とかではなく、信徒それぞれの良心に委ねることとしている場合を示します。
 主イエスさまは、カナの地で婚礼の席に弟子たちとともに臨み、水を良質のぶどう酒に変化させるという奇跡をおこなわれ、聖書は「主の栄光があらわされ た」とまで書いています。結婚そのものが主の祝福を受けるべきであることと、祝福を見えるかたちで示されたところで、水を良質のぶどう酒に変化されたとい うところから、キリスト教全体が“禁酒”ではないという根拠とされます。酒を嗜むか、健康のため禁酒をするかなどは個人の良心の決定に委ねられているとい う考え方。 
 聖書全体からいうと、カナの婚礼の記事から「酒について解放されている」と解釈するのは、「酒を禁止している」という見解と同様に、木を見て森をみない という間違いです。酒におぼれることは罪の入り口であり、とりわけ酒におぼれないことは指導者の大切な資格の一つとされているのですが、同時に主はカナの 婚礼で、水を度数の高いワインに変えるという奇跡をおこなわれました。(ヨハネ福音書)
 キリスト教は飲酒OKだなどと単純化するのもいかがなものでしょう。いえ、あくまで聖書を基準とするのであれば。
 聖書のなかに、泥酔がもたらす罪の数々の事例を見いだそうとしたら、すぐに見つかります。
 ところが、問題は、とりわけ近代プロテスタントのなかで、教会によって“禁止事項”とされてしまったところです。たとえば会員登録のために、「禁酒」を 入れるなどするところまでいくと、教会のなかに「飲んではいけない」という形をかえた律法主義の戒律が生まれます。
 かつて古代ユダヤの人々を縛ってしまった偽の福音に道を開くようになるのでした。酒が有害かどうかという議論とは別に、酒の有害に拘るあまり、意図して いることと裏腹に、聖書が求めていない新しい律法主義を導入しているプロテスタント教会は少なくないのです。
 “良心に委ねる”というのは、信仰が成熟した段階であり、未熟な信徒の場合は、「禁止」でいいのだという見解がなくもありません。そうなると、ほんらい は個々の判断に委ねられるべき事柄が、次々と「取り決め、あそこに少し、ここに少し」という最悪の状態が惹起されるようになります。成熟した信徒の群れに おいて、牧師や役員レベルで、朝から酒宴をしているなどというのはありえないでしょう。個々の良心の事柄においてわきまえられるべきことです。そして、個 々の良心に委ねられるべき飲酒の事柄を、隣人愛や自己抑制などのテーマとしてセルフコントロールできることをめざさず、ただ牧師の“勅令”や長老会の禁止 事項で縛ろうとするのも、非聖書的とされるべきです。
 良心に委ねられているのは、このほかにも、子どもの教育方法。ホームスクーリングをおこなう家族は、教会が子どもは“学校に行く存在”と決めつけるのを 嫌います。ここの家庭に委ねられている事柄であると理解しているからです。学校への強いこだわりをもつ日本人の気質に文化適応すべきであり、あえて逆らう ようなことをするべきでないとかいう批判も的確さを欠きます。
 政治への見解も、基本は「良心に従って個々人に委ねられている」事柄。ある地域教会がひとつの政党を支持などはいいませんが、しかし政治への無関心がみ られるとしたら、それは隣人愛の欠如を意味しています。他人がどうなろうと、ただ自分たちの平穏安泰だけに関心があるという意味ですから。
 平気で嘘を言い、それを「力」を背景に押し通している政治があるというのに、牧師が講壇から何も言わないというのは、いったいどういう「福音」が語られ ているのでしょうね。 
 個人の良心に委ねられるべきことに何を入れるかといえば、時代や世相が反映するともみられ、難しい課題となるのは否めません。
 簡単な事として扱わないで、真剣な議論とすべきところ、「良心の成熟」もまた、信仰のもたらす結果なのだと思わされます。車を運転していると、運転手た ちが守っているルールはきわめて多岐にわたると承知できます。ルールがあるからこその自由であるとするなら、境界線がどこにあるのか体得できた結果の自由 を得るという「成熟」に届くまでのプロセスが長いのがいいのか短いほうがいいのか。難題です。
 あえて、いつまでも信徒を子ども扱いして“乳離れできない”状態に据え置くのだとしたら、いってみれば“居心地の良い仲良しクラブ”ができあがると思い ます。いったいそれでいいのでしょうか。