Tokyo 5月29日(火)
         
 学者であること 職人であること
 
 学者として生涯を終えることも実に幸いな人生だと考えます。自己満足だけではなく、社会貢献されている学者であれば、なおさら社会的にも尊敬されるべき だと考えます。
 一方、職人を生業(なりわい)とする場合、いわゆる机上の仕事をする学者ではないとみなされ、一種の棲み分けのようなものがおこなわれ、自分たちは机の 上の空論を扱うような学者ではないというところから自分たちの立ち位置を得ている場合が少なくないと思われます。おそらくその区別は、かなりバーチャルな もので、現実には、学者であっても、フィールドワークや実地調査など、リアルな世界と向き合わなければならないでしょう。哲学や神学など、形而上(けいじ じょう=見えるかたちをとらないが実在するもの)事柄を扱う場合でも同じことがいえるのだと思われます。この場合、「哲学や神学の議論こそ、現実と向き合 う学問なのであり、工学などいわゆる実学は、現実の末端の一部を扱っているに過ぎない」という前提に立っています。
 職人の仕事は、非常に奥の深い美学や哲学のなかにも造詣を深めなければならないという場面が多々あり、その意味からいえば、学者であり続けるとしたら限 りなく職人としての気質を磨かなければならないでしょうし、反対もまた正しいのであり、職人も学者のような気質を身につけていかなければならないのではな いかと思わされます。
 たとえば医者として、「手術をした患者の体を完璧な健康体にできる」というのは職人技の極地ともいえるかもしれません。人体というとてつもない精巧な生 命体の機械を、個々の機能の違いや役割、病気ごとのケースの違い、そして健康体再生のプロセスを知り尽くしているというのであれば、優れた学者であり、し かし同時に、職人としての一級の腕前を要求されているという意味でしょう。いいかえれば、今の医学界で、ほんとうに職人気質を身につけておられる人を見い だすのがとても難しいのではないでしょうか。音楽家や舞台芸術もそうなのでしょう。職人としての質は、ほとんど再現なく極め、磨き続けることができます。 そうなると、自己満足にとどまれないのであり、 医者の場合は典型の例ですが、職人としての仕事にはなんであれ、極めようとしたら学問のバックアップが必 要なことが多いと存じます。政治家もそうです。政治家は限りなく学者としての気質と職人として気質をもちあわせていなければなりません。あえていえば、山 本さんや共産党の小池さんのような方かな。
 職人の世界にもとめられる学問。学者のあいだにもとめられる職人気質。それは永遠の課題なのでしょう。学校制度が社会のために寄与してきたことといえ ば、分断と劣化だったのではないかと思われます。分断とは、学者としての職業を、リアルな世界から切り離し、ソフォスティケイティッドな雰囲気だけを価値 あるものと宣伝させること。職人たちから“学問”を締め出し、質を高めることをさせなくしてきたこと。
 いずれも、学校制度が現在のように席巻するまでは、どの国にも失われていなかった「資質」だったと考えます。
 オランダにおいて政治家だったアブラハム・カイパーは、数冊の優れた神学書を著し、それは今も読み続けられています。
 長崎で雇われ外国人医師として働いてたオランダの医師シーボルトは、余暇を利用して「日本動物誌」「日本植物誌」を書きました。彼が画家としてもいかに 優れた技術をもっていたことか!
 医師であり宣教師であったヘボンはヘボン式ローマ字を開発したことで知られますが、同時に、日本ではじめて“義足”を紹介したことでも知られています。 100年から200年ほど前の人々がどんな職人としての気質を備え、同時に優れた学者でもあったかにふれると、現代の日本がどこに行くべきかひな形が見え るかもしれません。
 日本人に劣化を与えてきたのはアベばかりでなく、学校制度そのものであったということを疑いません。