Tokyo 5月20日(日)
         
   教会のマネージメントのなかに、会社経営論の手法を導入することがみられ、お金と人と物の動きについて、教会形成のためにも“アウトソーシング”をして、たとえばいつもは会社経営の職業的コンサルタントをしている人に研修を依頼するとかいうところまでいくと、教会形成と会社経営の質の違いが見えにくくなっているのでした。牧師は社長と同格であり、役員や長老は、重役扱いとされ、牧師は社長のような高級待遇と、羽振りの良ささえアピールするようになるところまでいくと、世に媚びた堕落の仕方をしているのではないかと訝しくさえなります。とくに牧師は清貧の模範を示せなどいうのもそれはそれで別の問題。しかし、優雅な生活を示し、「暮らし向きの自慢」にしかみえないとしたら、すでにサタンの手下になっているのではないかと疑わなければなりません。
  「ユダヤ人にはユダヤ人のようになる」という宣教論を応用すると、都会のビジネスマンのスタイルに身を包み、ビジネス界隈で使われる用語を多様したとしても、それさえ宣教戦略とみられるのであり、宣教の質は同じでも、都会の仕様に身を包むことで、周囲にとけ込み、そして周囲の人々に影響を与えやすくなるという考え方も受け入れられるのでした。外側だけビジネスマンの姿をしたような福音というのもあるのでしょう。
 ところが、聖書を基準としているのか、世俗のビジネスマンむけのハウツー本を真似ているのか区別できなくなるところまでいくと、教会の世俗化がすでにはじまっているとみなされます。いえ、世俗化そのものが何もかも悪いことだという意味ではありません。
 「世の基準」のほうが、聖書の示す基準よりスマートで人気があり、あか抜けしているとみられてしまい、聖霊の働きであるのに、人間的テクニックを聖書的な言語をつかって説明しているだけに過ぎないということさえ生まれるのでした。教会の形成とは、人の編み出した哲学や経験測によるしかない人知によらず、聖書に基づいた聖霊の力のあらわれる場所です。そうだとしたら、会社経営のハウツーを、教会形成に導入することは限りなくアウトに近いのではないかと思われます。
 教会で語られるメッセージが、ただ神学議論を紹介するなど、研究発表のような机上の空論とみなされるとき、説教はすでに現実味を失い、塩気を失うようになります。魂を養う力が失せた説教は、むしろ聴かないほうが魂のために良いと錯覚することさえあるかもしれません。
 礼拝に出席するメインの目標は“説教を聴くため”ではありません。
 説教が礼拝の核心部分であるのは確かです。信徒は主を賛美し、礼拝するために出席するのであり、「良い説教を聴く」ことが最終目標なのではありません。そこにおられる臨在の主と交わることに目的があるのです。あなたがもし、説教で感動したりより高い状態に引き上げられるという経験がなければ、礼拝出席そのものに意味がないと考え始めたとしたら、すでに霊的な成長が止まった状態であると自覚しなければなりません。
 牧師も「感動を与える説教」を目指すようになるのですが、それもやはり「大きく的を外す」結果になるでしょう。
 聖書が人に何を語ろうとしているのか学び、その上で神が人に聴かせようと願っているのは何なのかを伝えるのですが、公演でも講義でもないのは、そこに神の心が明確に示されていなければならないところでしょう。もしかしたら、神が説経者を通じて、たくさんおられる会衆のなかにいる、たった一人にたいして語られているのかもしれないからです。
 牧師の自慢話や聖書研究の発表、神学の講義、さらには落語とか講談のような世間話と大差なくなったら、すでに説経としての内実を失っているとみなされます。
 テープに音声として記録されるだけではなく、聴いた信徒の魂に永遠に刻まれるメッセージが求められています。そんな業は人には不可能です。人の魂にみことばを刻むのは、100%聖霊の働きです。
 歴史のなかで継承されてきた「神学の学びとその継承作業」を軽視する傾向がみられるのに世の「ビジネス基準」を神学より尊ぶのだとしたら、神学そのものを学ぶ内容がいい加減であるのかもしれませんし、すでに実質リベラル化して、聖書信仰から脱落しているのだとみなければなりません。体験主義的信仰形態にそのような指向が強いということは指摘しておきたいのです。