Tokyo 5月19日(土)
         
 罪人を招く

 このテーマは、“売春”を含めた風俗産業は、人の罪に取り入った事柄を商売とするため、盗賊とおなじ卑しい仕事であるとみるのか、 ギャンブルにかかわることを生業としている場合、“卑しい”といえるのかという課題にぶつかるといえます。
 かつて、ホワイトカラーと呼ばれる事務職など“クリーン”な仕事をできない人であり、ホワイトカラーになれない人が土木や林業などブルーカラーと呼ばれる人々を形成しているみかたが存在していました。(いえ、今もそう考えている人が少なくありません。)一般的な意味で、職業に貴賤をつけられるのかというテーマではなく、キリストの福音を視座にした場合、どのような“差別”も存在しないというところはどれだけ時代が変わって変わらないでしょう。
 古代ローマでは、医療や教育に携わるのはもっぱら奴隷の仕事とみなされ、“卑しむ”対象とされたところをみると、職業についての倫理観は時代とともに変遷したり、国固有の文化などにも関係づけられなければならないのだと考えます。
 けれども、盗賊も売春も「聖書的倫理観」からは許されません。
 盗賊や売春などと、聖霊のよって支配されるべき聖なる場とは、キリストの宮清め事件にも象徴されれるように共存はできないのです。
 作家のドストエフスキーは「罪と罰」のなかで、ラスコーリニコフのまえに信心深いソーニアを登場させ、たとえ生活のために身を堵するような生活をしている女性においても「純粋な信仰」が宿ることを示唆しました。
 聖書は、主イエスの弟子たちのなかに売春婦出身の女がいたことを示していたのです。どのような生き方をしていようとも罪から離れて悔い改めることと引き換えに、心に信仰を宿すことができると聖書は語っているのであり、“売春”という仕事を聖書的倫理から必要悪だなどと許容しているといわけではないのでした。
 それでも、現代のキリスト教会のもつ、社会との「深い溝」をあえて指摘するとすると、たとえば売春に身を堵するような生き方をしているようなさげすまれた女性たちの心の病に、キリストの福音が届くためには、ものすごく遠い道が横たわっているかのように思われます。
 ホームレスの生活者や、「飲む買う打つ」の世界にいる男女にたいして「心の隙間を埋める」などといういいかたができたのは、願いを実現するかわりに不幸に突き落とす悪魔の化身のような、“もぐろふくぞう”という架空の存在でしかなかったのであり、ほとんど自業自得の人生観がまかり通っている世間にあって、地域教会が礼拝において、“なんの差別的目線もなしに人を招くこと”は、建前としてとして認める以外は、おそらく非常に難しいのです。

 「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ福音書12章47節)
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ル カによる福音書 5章31〜32節)
 
  どのような職業を生業としていたとしても、すべての人が悔い改めを条件に教会の門をくぐることをゆるされているというのが聖書的原則。
 ヤコブ書などでは、金持ちとそうでない人との差別意識を批判した記事があるなどしていますので、初代教会には、教会以外のところでは決して接点のなかっ た人々が主の聖餐を共有するという場面がみられたのでした。しかし、現代のすべての人々において、前職や出身民族が異なる人々への寛容さが備わっていない というのも現実なのでした。いえ、教会の出先があちことに、入門機関としてサテライトのようにできるというのも理想で、人の心のなかの見えない蔑みの心 や、「人を見下げる立ちを確信できなければ、自分の幸福を感じられない」という不幸な病と闘わなければならないのももう一つの事実です。
 成熟の度合いも千差万別なので、「安心して礼拝を守れない」という現象がおこり、“すみわけ”が生まれたのだという意見がありました。もともと、キリス トの福音はどんな差別もなく与えられているものの、地上の教会は不完全であり、聖書的訓練の達成度にも違いがあり、互いが平和のうちに礼拝をおこなうこと のできるための“地上におかれた教会の機能”といえるのではないかという意見がありました。
 これを原理原則としてそのようなことが肯定されたことは歴史のなかで存在しません。ただ、いつの時代でも、英国で「救世軍」が生まれたのような福音のほ んらいの純粋性を実現するムーブメント、もしくはそのような群れが起こされるであろうは予測できます。
 「都会的に洗練された教会」や「聖書的に訓練された優れた市民」が生み出す集いの場であるという意味と、どんな人でも受け入れる許容力を持っているとい うことは、地上の教会においては実現不可能であるようにみえます。いえ、ほんとうはそのように見えるだけなのかもしれません。