Tokyo 5月15日(火)
         
 「男らしさや女らしさの問題は、人体や文化の特性であって神の特性ではなく、 神を男性または女性であると述べることは、聖書および論理に反する」。クリスチャン・トゥディ(ネットニュース)によると、米国の合同メソジスト教会 (UMC)は、このような議案を“多数決”によって否決したと報じられています。
 「男らしさ」「女らしさ」は、アダムとイブが創造されたころから、本質的には神からのギフト(賜物)であるとするのが聖書的な理解。
 それに対抗する思想的潮流は数多(あまた)あります。よく知られているのは、近代フェミニズム運動において、サルトルの事実上の“妻”であった、シモーヌ・ド・ボーヴォワールにルーツがあるとされる点。 曰く、女性に生まれつくと、女性差別という圧倒的な圧力のなかに封じ込められた生涯を強いられていたのが近代以前の社会の姿であり、社会の現代化とは、す なわち男と女の区別を完全撤廃するところをめざすべきであり、男性社会から女性の自由を解放すべきであると。
 そして、はじめに女性解放運動を言い出したボーヴォワール がもともと意図していたかどうかは別として、いまや男たることや女たることを前提とした「社会システム」全体を見直し、男であろうが女であろうがなんの区 別もされない社会を“実現”することが理想という議論がなされるに至っています。さらには結婚制度さえ、男女差を前提としているのであるから、同性同士の “結婚”が存在しないのはおかしいという議論にさえつながります。「結婚制度はもともと備わっていたのではなく、社会制度上、もしくは為政者による統制の 上の都合で創設されたに過ぎない」というとき、同時に、そこに聖書的創造論へ の敵対心もまた隠れているのを見逃してはなりません。
 男女が「神の似姿」につくられました。人としての尊厳において何の差異はありません。
 女として生まれたから劣勢をもつというのは全くの誤りです。
 最初にアダムが造られ、精神的にも肉体的にもアダムを助けるためにエバがつくられているのでした。優劣ではなく、それが聖書の示す現実(リアリティ)で す。
 ついに、ここにきてキリスト教会のなかに、神が“男性”として扱われ記述されている聖書への対抗も生まれてきたところで、かりにUMCが多数決で「わが 教会は、多数決により 神を男性とも女性ともみない中性であることを決めた」とか、どこぞの国の「閣議決定」みたいなやりかたで勝手に決められたとしても、聖書は、神を父親と呼 び、イエスキリストは男性です。人の勝手な決め事によって、聖書の示すリアリティそもののに手をつけるのは困難です。
 
 聖書の記述を空理空論と決めつけたうえで、現実追求していった先にあったものは、それこそが正真正銘の“空理空論”だったのではないでしょうか。これに ついて、いちいち事例や歴史事象をひもとくこともなかろうと思われます。
 医学や社会福祉の分野からの発言として、「性同一性障害」や「半陰陽」へのさらなる一般的理解が必要なのは言うまでもないですが、男でもなく女でもない “中性”を前提にした社会構築にははじめから無理があります。
 むしろ、「ジェンダー(性の違い)への配慮に基づいた社会構築」を目指すべきです。 
   「麻生さん発言」ですか。ここであえて付け加えることもないでしょう。
  アウトに決まっています。