Tokyo 5月13日(日)
         
批判する立場

 とくに権力にたいして“批判”の立場をとるとき、腐敗の度合いが激しいほど、「批判のスタンス」そのものが正義の側に立つとみなされてしまいます。政治とは力であり、力の結集が政治であるとすると、どんな理由であれ批判する側の一角を担うのであれば歓迎となるのでしょう。
 そこにも落とし穴がいくつかあります。
 腐敗した権力にたいしてであれば、「どんな批判も許される」とみてしまうこと。「坊主憎くけりゃ袈裟(けさ)まで憎い」といわれるのですが、批判している相手と同じ欠点や問題点が“批判する側にもうまれてくる”ということも、忘れてならない人の罪が生み出す性(さが)なのではないでしょうか。いえ、だからといって、安部さんを尊敬するなどという気持ちは全く微塵(みじん)もないし、歴史的に最悪な首相が、もともと立ってはならないところに立っているというのが現実ではあります。
 けれども、あえて、身体的欠点や病気などを批判のネタにするとき、それと同じ批判原理にたつなら、たとえば立場がかわって権力の座についたとして、自分より弱いとみなす立場の人々にたしてむけられるとき「いじめ」と同列の醜悪さが惹起(じゃっき)されるのではないでしょうか。
 あなたに敵対している相手がいたとしたら、あなたのなかにある敵対心は、敵対している側と同じ不正義をあなたのなかに再生産してしまうのです。
 昨今の、ものすごく醜悪な公明党代表の政権よいしょ発言とか、八王子出身の**さん。首相の太鼓持ちおきまりの「よいしょ発言」だとか。子どもたちに見せてはいけないのは、なにも「ネットポルノ」ばかりではありませんよ。あのような政治家の発言を批判的コメントがないまま子どもたちに絶対に見せてはなりません。真似してほしくもありません。おもてむき平和と正義の顔をして内部に腐敗が隠れているより、ガンが表皮をやぶって表面に出てくるように見えてきているほうが判断しやすいのかもしれないですね。

 「最初に訴えた者が正しいかのように見える」とソロモンは言っています。周囲からみて、正しいかどうかの判断はおいておいて、最初に訴え出てきたものが正しいことを言っているかのように錯覚するというものです。
 正しいかどうかではなく、正しそうに見えるから正しいと。
 そこで、「批判しているあなたの言い分はわたしも賛成だ。けれども、あなたの動機は正しくない」と見抜くことができるかどうか。
 それはおそらく簡単ではないでしょうね。
 公の批判に晒されつづけているとして、たとえば“仕返し”の糸口をみつけようものなら、“ここぞ”とばかり、大げさな批判を展開してみせて、自分の正当性をアピールしたかるとか、周囲からは非常に見えにくいのですが「歪んだ正義」も存在します。いえ、批判勢力も政治の地平からみれば力ですから、動機がなんであれ同じ内容であれば集結は歓迎されるのでしょう。
 けれども、一旦権力の座についた側に立つものが、「正義」の意味を身につけていないと、同じ腐敗が再生産されることになる。残念ながら、それが権力が腐敗してきた歴史というものです。共産主義国家でさえ、最初から悪かったのではありません。北朝鮮でさえ、「日本国の劣悪非道な懐柔政策から朝鮮民族を守る」ところから出発していたからです。日本を批判していたパルティザンたちがやがて権力の座に居座るようになるとどうなりましたか。自国民にたいして歴史上まれに見る暴政を続けるようになったのでした。
 権力はこのように腐敗するものであるという歴史的反省にたっているのが「日本国憲法」。九条もすばらしいのですが、わたしが日本国憲法を尊く思うのは、権力腐敗への明確な認識にたち、絶対的に国民を守るルールとして制定されているところです。
 これほど、すばらしい日本国憲法を「みっともない」といったアベ。ほんとうに即刻やめてもらわなければなりません。
 それにしても、北朝鮮の核廃絶は見事な歴史的事象です。日本の国際記者が外されているようで、日本の報道機関が「アベの手先」となっているという実態をよく理解していると思います。国際社会からすると日本の大手報道機関はことごとく買収され、もしかしたら北朝鮮のそれよりさらに悪化しているのかもしれません。