Tokyo 5月12日(土)
         
信教の自由をめぐるあれこれ

 国民に、どんな信条や信仰にたとうとも、それによって迫害が引き起こされないという基本権についてのルール。そして、仮に大多数の人々が“多数決”によって、国家権力を掌握したような場合、たとえキリスト教であっても、国家権力と宗教とが結びつくのを厳格に制限した「政教分離の原則」。信教の自由が確立されているところで、同時に政教分離を明確に政治判断しなければならない理由は、たとえばイスラム国のように、ひとつの宗教的戒律が、信仰が違うと同じとにかかわりなく、国民としての義務になりうるという、「宗教弾圧」と隣り合わせであるという歴史的反省によって形成された基本法なのでした。
 日本において、信教の自由が確立しているとはいえ、オウム真理教の場合は「大量無差別殺人事件」をふまえて、禁止とはしないものの、国家による監視活動としては今も続いています。
 問題は、創価学会で、戦前戦中に弾圧されたあと、戦後政治のなかに食い込み、宗教勢力として唯一政治権力を動かすような勢力となっていることで、公明党=創価学会によって政教分離原則が事実上空洞化されていること。
 政教分離原則については「目的効果論」が、やがて悪名高い“靖国懇”の理論的支柱となり中曽根さんの「靖国公式参拝」まで引き出した津地鎮祭訴訟は最高裁判決が記憶に残ります。つまり「目的と効果において宗教たる要件を満たしていなければそれは習俗であり、宗教にあらず」という、法学にいう「目的効果論」が幅を利かせるようになってしまったのであり、内実は宗教以外のなにものでもないのに、「目的効果論」というきわめて主観的ないくらでも尺度が変わるような尺度が発明されてしまい、政治権力によっていかようにでも融通無碍となるような鵺(ぬえ)的基準がまかりとおることになったのでした。たとえばキリスト者からすると偶像礼拝とされる宗教施設への“参拝”を、習俗という名のもとで、国民におしつけられかねない状況が生まれてしまったのといえるのでした。

 創価学会のように政治力に食い込んで勢力を拡大することそのものが存続の理由となっているような宗教は、オウム真理教や幸福実現党の母体である仏教系カルトの「幸福の科学」など多数存在しますが、いずれも、政治権力を掌握した暁には、特定宗教以外の存続そのものは「自由」の名のもとに容認するものの、たとえば“迫害すること”にたいして警察の取り締まりを容認するか、原則として、法改正してでも事実上いまは禁止とされれるようなあらゆる手段さえ認められるようになりえます。
 浅原が絶対化・神格化されるのは幻想に終わったのであり、たとえば大川を絶対化・神格化するのもほぼ幻想に過ぎないとされるのですが、創価学会は現行勢力と結びつい ているため、どのように一党独裁化をめざすのかというシナリオは見えないように隠されているだけであり、現実日本に存在する国民主権への脅威だという事実には変化がないと思われます。
 戦前戦中にも「自由」がなかったわけではないのです。
 すべて「条件付き自由」とされ、天皇の権威を認める範囲内での自由とされたのでした。
 国家が国民に法律によって保障する自由は、無制限でなければほんとうの意味の自由ではありません。
 かつてキリスト者として靖国法案に反対していた人々が、創価学会カルトと政治が密接な関係になったあと、政教分離原則について何も語らなくなったのを訝しく思います。創価学会の考え方を基礎とするとき、公明党による一党独裁、つまり、仏教思想による共産化がめざされているとみられます。原則として信教自由は保持されるものの、宗教と政治の結びつきが容認されるため、このままだと「思想信条を理由にした迫害」が引き起こされるのではないかという懸念は消し去ることはできません。 

 「いつお辞めになるのですか」

 ・・・という山本さんの質問に、答えがなかった安部さん。止まっても進んでも、修羅場であるのは間違いないのですが、彼が首相の座に留まれば止まるほど、日本全体の劣化がすすみ、民族滅亡のカウントダウンともいえる状態が、なんの救助策も出されないまま進行しています。
 おそらく辞めた後に何が待っているか怖いために、「辞めます」という申し立てが自分からできないのでしょう。
 かつて、切腹を命じられた武士が、怖さや想像を超えた痛みに絶えられず、他人の手によって、すなわち介錯人をつけて苦しまずに即死するようにしたのですが、おそらく安部さんは誰かに決断を後押ししてもらうようにしてでないと怖くて自分では決められない状態。なんとも恐ろしい人に首相ポストを委ねてしまったものです。国は、いまや運転手のいない暴走列車のように滅亡めがけて突き進んでいるのでした。
  これまでの王様のような待遇と振る舞いにおかれた環境におかれていたのに、「辞めます」だけで、一気に霧のように消え去り、地獄の入り口から奈落の底が見えているのだとしたら、そんな道を行く勇気はもちあわせないのかもしれません。
  自分の存在がどれだけ不幸を呼び込んでいるか知ってかしらでか、自分の安泰のことしか考えられないし、隣人がどうなろうということは一切関係ない状態のまま安部さんが首相の座に留まっていることが、現代日本の最も大きな不幸です。