Tokyo 5月11日(金)
         
「スマホ」 カーナビの威
 ガラケーを20年くらい使い続けて、格安シムフリータイプスマホに切り替えたとき、“おすすめ”として、カーナビの便利さをだれからから伝えてもらいました。カーナビそのものは以前使っていたことがあったものの、なかなか道を覚えるようにならないとかの理由で、極力ナビに頼らない運転を心がけているのですが、実は、スマホ カーナビの正確さは想像以上でした。音声による案内も、交差点名も、渋滞による経路変更まで備わっていて、ナビシステムを販売している会社にとっては、脅威になるに違いないと思いました。もっとも画面の小ささや、建物情報が希薄なことが難点といえば難点。画面切り替えのレスポンスの遅さが、スマホ会社とウエブネットワークに依存しているからなのでしょう。とはいえ、目的地までの運転に道案内としての役割を果たしてくれて、ストレスを感じなかったのは事実です。

「贈り物」のルール
  一人子であるイエス・キリストを人の罪の代償として死に渡されたところに、なんであれ「プレゼント」の考え方を指し示すルーツがあると考えます。
 まずそれが“戦略的”でないこと。誰かを動かすための“素材”として贈り物を持ち出す場合はよくあることです。けれども、そこにはキリストにあるプレゼントとの“相違”があります。与えただけの見返りを期待していたとしたら、“プレゼント”のかたちはしていても、人を動かすための材料にしか過ぎないということになります。
 わたしは「お中元」や「お歳暮」など、贈り物が日本の良い伝統の一つであると承知しています。
 人が創造された最初から、「受けるよりも与えるほうが幸い」な存在として造られているのでしょう。
 見返りを期待しながら、キリスト信仰を受け入れてしまうとプラグマチズムの餌食になります。それはたくさんの人が憧れる「広い道」なのでした。キリストの名でさえ、自分の栄誉と地位を確保するためのステップにしてしまったとき、たとえキリストの名が語られていたとしても“冒涜”と同質の扱いをされるのは言うまでもありません。
 ギブアンドテークではないというばかりではなく、「自分にとって最も必要なもの」であったこと。おすそわけのプレゼントもいいものです。お裾分けなので、もらったほうも気兼ねなく受け取れるのでお返しなどあまり気遣わなくても良いのかもしれませんね。相手を気遣ってそういうのではなく、ほんとうにありあまった中から“お裾分け”であれば、それも、ありあまった所有物のなかから少しだけ分け与えたとしても、たとえばレプタ2枚という生活費全部をささげたやもめと、大金持ちがだれからもわかるように献金したのを比べている聖書の記事が示すように、たとえ絶対的な金額で比較したら、ほとんど数にもならないお金だったとしても、献げる人にとって“痛みも何も感じない”のだとしたら、キリストにある捧げものの質からすると価値がないものに等しいのでした。
 それで、“これは生活のためにとっておきたい”というものまで献げることが許されたら、いえ、そのような信仰の境地に至る人はほんとうに希でだとしても、想像を超えた祝福が届けられることでしょう。
 キリストの業をどう“評価”するかというとこにも依存します。いえ、もともと、人が上から目線で“キリストのみ業”を評価するなどは言い方が間違っているのです。いえ、そうなのですが、キリストの業の意味がわかった人は、全生涯を献げてもおしくないと思うことでしょう。
 歴代の宣教師たちにごく普通にみられた態度でした。全生涯、全財産をそのために引き渡したとしても“惜しくない”という信仰に至るとき、歴代の殉教者たちの心根が少しでも理解できるかもしれません。
 自分にとって最善と思われるもの、「自分ももらったらきっとうれしい」と思うものをプレゼントするように努めたいのです。
 「これたくさん買ったので、いらないからあげる」とか
 「買ったんだけど、やっぱり自分の趣味でないのであげる」とか
 そんな贈り物でも受けたほうは、うれしい場合もあります。そして、そんな贈り物であったにもかかわらず、“〜さんからこんなものをもらった”とかいって自慢するようなことさえ。名前に価値がある有名人なら、名前を書いてあるだけで価値あるものに変化しますからね。
 そうであるにもかかわらず、「人が許されているほんとうの幸い」の質、キリストのみ業を原型とした贈り物からは、はるかに遠いですね。
 「受けるより与えるほうが幸い」といわれる、あなたがもし、ここで言われている“ほんものの幸い”をまだ得ていないとしたら、人にたいしての最大のプレゼントであるキリストを受け入れるところに立脚点をもつところから始まるべきでしょう。
 自分は大金もちなので「キリストの賜物」を受ける資格はないと思われますか。
 キリストはそのような狭い心を持つかたではありません。神の思いは人の考えと異なるからです。
 伝道的意味?確かにそれもあるかもしれませんが、
 これはわたしの「体験的経験則」から言っているのです。

「皇室」の役割
 歴史とか法とかいう学問上の議論はそれこそ数多(あまた)あるのですが、現在の皇室のみなさまの昨今発言されている内容が、日本人にとって非常に望ましいと思われる方向性を帯びていると納得できる故に、いいかえればそれだけ安倍政権が、日本民族全体に敵対したことをやっているという危機に瀕しているという意味なのですが、天皇ご夫妻ばかりでなく皇室に属する人々すべてが「日本国憲法」の大切さをとてもよく理解され、それを内外に発信されているとおみうけします。
  戦中戦前の天皇神格化の過去のイメージから決めつけるのではなく、偏見を捨てて、ひたすら現行憲法の枠組みのなかのあったところで、ただの象徴ではなく「国民の模範」のような考え方がされているあるひとつの「道標」という立ち位置につけておられるのだと確信しています。
  むしろ、皇族の皆様が“憲法改正(改悪)”をもくろむ日本会議にたいして明確に対峙したご意見をもっておられるところに安堵感を覚えます。反対に、日本会議なる輩と連動して過去の世界戦争と同じような国造りをめざす安倍政権が、これまでの自民党政権の「仕上げ」のような役割を帯びていることに危機感をつのらせている国民が多数であるを疑いません。
 ほとんどの国民が現行憲法がいかにすばらしいかを学びその大切さに気づいたとき、そして天皇ご夫妻や皇族のみなさまもその一員であるというところが驚きというか、日本国にとっての救いのような気がしています。