Tokyo 5月2日(水)
         
 あなたがたはめい めいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるので しょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によって バプテスマを受けたと言われないようにするためでした。(1コリント書)


 
パウロがひとりの牧会者として、どのような苦労をしたかよくわかる箇所です。
 コリント教会の信徒のなかには、いつも他人と比較したがって、他人より自 分のほうが“優っている”と確信できなければ安心できない人たちがいたようです。
 そういう信徒の場合は、自分を他人より優っていると確信できればいいので あり、「軽蔑する心」や態度まであからさまにしていたようです。洗礼を授けた人の数を“主の栄光があらわれるため”とか“主の名をほめたたえるため”とか いって、自慢したがるのはどうにかならなものかと、現代の教会の病気でしたが、それは古くて新しいキリスト教会内部の病気でもありました。
 キリスト者でない人のほうが、そのような傲慢な態度がみられないかもしれ ません。信仰がないほうが謙遜などというのはまことに皮肉なはなしなのですが、「他人をきめつける」「軽蔑的な態度」「噂ばなし」という悪さえ、信仰の裏 付けがあるために一層ひどい結果をみるのでした。罪を犯しても許されるとか、神が味方につくなら何でも許されるとか。「優秀な医者であれば、何をやっても 許される」などと同じいいいかたで、「信仰に立てば何でも許される」という言い方は、最も厳しい裁きを受けるようになるのは必至なのでした。

 「他人が自分より不幸でなければ、自分の幸福を確信できない」というのも、最終的には最も不幸な生き方を来たらせます。

 あなたは、自分のもらっている給料の高さが人の幸福度を示すと勘違いして いませんか。
 神はひとりひとりを、雀より価値あるものとみなし、自分の瞳のように大切 にされているのであり、とうぜん主がどうごらんになるかもそうですが、幸福度合いも、お金のあるなしと、“全く関係ない”というのがリアルな人の姿なので した。金持ちが幸福度が高いというのは、貨幣経済がもたらした虚像です。とうぜん借金などゼロがいいのですが、たとえ質素な生き方をしたと しても、主が与えられる幸福度が少なくなるということは絶対にありません。
 少し話題が逸れましたね。
 パウロに近いほうが優れているとか、ペテロに近いほうが優れているなどといいはじめた人の心にある“貧しさ”が何であるか理解しなければなりません。
 「ゼロから開拓した」とか、「どれだけたくさんの人に洗礼を授けた」とか、「どれだけ大きな献金をした」とか、「どれだけ大きな会堂をたてた」とか、 「たくさんの献身者がおこされ」たとか、「大きな事業をおこした」とか・・・あなたに自慢したいことがたくさんあるなら幸いです。なにも全部悪いことだな どとはいいません。でも、もしかして全部が自分の栄光を引き立てるための“材料”としかみえなくなっていたとしたら、主が最もお嫌いになるパターンに填っ ているとみなされます。