Tokyo 4月30日(月)
         
 ウエストミ ンスター信仰告白を形成するひとつの、大教理問答。第10章 有効召命についてのなかに、次のような箇所があります。

  幼少のうちに死ぬ選ばれた幼児は、いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれるみたまを通して、キリストにより、再生させら れ、救われる。み言葉の宣教で外的に召されることのできない他の選ばれた人もみな、同様である。
   
  つまり、胎児のまま、母体のなかで死亡するとか、生まれてまもなく、死亡するような幼児も救われるという信仰の受け止め方がみえるのであり、信仰告白 は主の救済にかかわるご計画のひとつであったとしても、“信仰を告白する”ことが神の救済のみ業を有効にするための引き金(トリガー)となるのではなく、 キリストの救済の有効性は「有効召命」という神の側の一方的なみ業に依存するのだという立場でした。それは洗礼や聖礼典のどれも、恵みの手段であはあれ、 救いのための条件とならないのと同じです。
 キリストのみ業が適応される範囲を、「信仰告白した会員による」と限定する場合、信仰告白をする機会を得なかった人々は、永遠の滅びに定められていると いうことになると、そのように正式に信仰告白されているわけではないにせよ、洗礼や信仰告白の枠組みを超えたところに救いを認めないという立場となるで しょう。
 救いの有効性が、人が告白したり、強い信仰をもつとかに依存するのではなく、「聖定」によるというのが歴史的なカルビニストの立ち位置であり、「ただ恵 みによって救われる」というルター以来のプロテスタントの立場と考えます。
 救済が「神の主権」の範囲にのみ依存しているというところから、「母体のなかで死亡した胎児に救いがあるのか」という疑問についても、幼児洗礼と同じで あり、究極的な救いのルーツは、神に依存するのであり、信徒の子どもにたいして示されている“アブラハム契約”の有効性を信じるという、「神の決定に委ね るのでした。、“救われているかどうかわからない”」のではなく、この子は救われていると信じるという、ここで信仰が働くのでした。
 ウエストミンスター信仰告白のなかで、“選ばれた胎児”とされているのは非常に重要で、救いの起源はキリストにあるのであり、人にあるのではく選びにあ るというところを明確にしているのでした。
 胎児の救いから派生している議論のひとつは、「それでは、生涯一度も福音に触れず、死の時をむかえたような人が救われることもありえるのか」というとこ ろでしょう。外部から全く阻害された辺境の地で生まれ、そこで死んだような場合、それでも“選び”が「信仰告白」に先行するというのであれば、理論的には 「信仰告白なしの救済」もありうのではないか・・・。と。
  たとえば、十字架の上で、パラダイスに行くと約束された罪人さえ、人の目には一度も信徒とはみられずに生涯を終えたのでした。
 主のみ業が有効にされる範囲は、人の認知できる範囲を超えているという立ち位置もまた聖書から導き出される結論なのだと思います。十字架の上のひとりの 罪人は、外面的にはキリスト者の生活を一度もおこなったことがないからです。彼にさえ、信仰告白はあったのではないかと。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられて いないからです。」(使徒12:4)と書かれているので、キリスト以外のどのような偉大な宗教家の名においてもそこに救済の道があるとは信じません。CS ルイスのように万民救済を信じたとしたら、すべての人が救われてほしいという意味で、情の上から理解できなくもないですが、わたしの受け入れている信仰の 範囲ではありません。
 一度も福音を聴いたことがない人が救われるかもしれないとすると、キリストを宣教する意味や教会が存在している理由さえ限りなく相対化され、結局、救わ れるためには見える教会と関係ないどころか、別にキリストでなくても良くなるのではありませんか。
 もし「書かれていることを超えない」というところに止まるのをしなかったら、議論はいくらでも人間中心に拡張していくことになります。
   ついには万民救済論に接近するようになるでしょう。それは人間的には非常に魅力があります。熱心な仏教徒として死んだ大好きな祖母も、救われるかもしれないのです。しかし、同時に聖書の教えにまっこうから反することになります。 聖書に よれば地獄も永遠の定罪も存在します。いえ、セカンドチャンスを受け入れて、地獄も否定して、すべての人が結局救われるのであれば人の情や希望からしたら それに越したことはないと考えるような人があらわれとしても不思議でないのですが、人は、聖書に書かれている事を超えてはいけないし、徹底的に主の主権の もとに謙遜でなければなりません。
 救いをもたらすのは徹底的に恵みのみなのであり、100%人の努力や願いや希望によるのではありません。
 「死後にセカンドチャンスがある」は、聖書から導き出される結論ではありません。
 それはウエストミンスター信仰告白の立ち位置でもないと考えます。すべての救いについての教理においても、他の教理についてもそうですが、「知的に偽装 されたスマートな哲学的議論」を排除して徹底的に聖書に書かれていることへの謙遜さを学ばなければならないと考えます。
 ソドムは罪深さのゆえに滅ぼされたのに、主はニネベをどうして滅ぼされなかったのか。ニネベは悔い改めを示したからでしょうけれど、ソドムには「悔い改めの心」さえ与えられなかったのでした。事は人の考えや想像するところによるのではなく、ただ事を決め、憐れんでくださる主によります。