Tokyo 4月24日(火)
         
 聖書を“わ かりやすく”解き明かそうとするとき、語るものは、常に何らかの誤りと隣り合わにいると自覚しなければなりません。
 たとえば、「わかりやすく解説したい」という一念で示す“図表”です。
 図式化という作業がなんでも問題というわけではないのです。
 聖書以外の学問の分野で、文字で書くより、図表をつかうほうが要点が明確につかめるというところがありえます。その場合は、“道案内”の役割のようなもので、迷い道に入らずに、目的まで最短の時間と、無駄な労力をかけないでいけるという意味があるのでした。
 もし、子どもたちにたいして、図表などをつかわないで、言葉だけで聖書の確信を伝えることができたなら、それこそが説教者の真骨頂です。幼子たちが心から理解できるようなメッセージを語れたとしたら、それこそがメッセージの見える段階でのひとつの目標とされるべきでしょう。
 ただ、難しい漢語を使わないというのではありません。幼児語がたくさん使われるようなら明確な駄作です。
 子どもに分からせたつもりになっているだけで、せいぜい報告のための自己満足になっているのであり、子どもたちが心から霊的な意味を納得するというレベルは、そうそう簡単なレベルではないのです。
 ところが、図表が生み出すトリックは、人の生み出す想像力に依存するために、もともと図表などに示すのが不可能と思われる表現であり、可視化できない、霊的な事柄に属するところを、人が認識できるレベルにまで押し下げるようになってしまいます。聖書を題材にした絵画もすばらしい作品が非常に多いのとはいえ、デフォルメされていたり、たとえば、イエスさまの肌は褐色に近いはずなのに白人であるかのような錯覚さえ生み出してきたのでした。
 注解書もそうです。注解書を読んでいるだけで、聖書を読んだつもりになるというのもまったくトリックのような錯誤の世界です。
 図示されると、ほんとうは理解できていないにもかかわらず、理解したかのように錯覚するものです。聖書を読んでいなくても、読んだかのように錯覚するというのは、図示されたものばかりでなく、映画も同様なデフォエルメが引き起こされるのでした。聖書をそのまま読んでいたら決して見いだされないような“秘密”があるとかいいはるのかもしれませんが、やはり、聖書そのものから、読者を逸らせてしまうような錯誤がみられるのでした。
 第一、第二というカテゴリー化も、聖書そのものは、論文などのように項目をあげて列挙しているわけではないのであり、聖書そのものから読みとるというより、自分の関心事についての“解決策”を聖書のなかに探しているに過ぎないという場合がみられます。聖書は経済学の教科書でも、心理学の教科書でもありません。学問ひとつとっても、学問が生み出す関心事へのひとつの解決策を聖書のなかに読むことも不可能とはいいませんが、聖書そのもののもつ指針からずれてしまうことになります。ここにも、わかりやすくするのがねらいなのだといいはることもできるのです。けれども、聖書記者たちは論文の発表をしてみせるとか、研究成果を自慢したいなどとはつゆほども思っていないのです。
 自分の体験談も、聖書を「わかりやすく説明」したいがあまりのイラストレーションとなりえます。けれども、常に、牧師・説教者の「自慢話」と紙一重になると自覚していなければなりません。いえ、本人は失敗談を語っているつもりであっても、自慢話としか受け止められないような事例はそれほど山ほどあります。牧師が大学でおこなった専門教育を土台にして聖書が解き明かされるのは、ほんとうは禁じ手なのだと思います。自分がどれほど知的研鑽を積み上げてこようとも、一旦、聖書を前にしたら、自分は何ひとつもちあわせていない紛れもない罪人であり、語る言葉の一つ一つを天から授けていただければならない、いわば“ものごい”に過ぎないと本当に自覚していなければなりません。
 
 聖書の原語研究を充分におこなっているから優れた説教となるというのは“幻想”にしかすぎません。聖霊の業としての宣教とみれば、神は牧師に語る賜物を与えるばかりでなく、平信徒である長老による説教も用いられるのです。日本語聖書がすべて翻訳された書物である以上、原語を学ばないまま講壇に臨むとか、組織神学を何も学ばないまま、“罪”“救い”“復活”を語ることがいかに人の誤りを混入させるようなるか、やはり、学問は霊的なものと反する思いこんで、神学的な研鑽をいっさい無視したうえで聖書を解き明かすなどということは“怖くて”できません。しかし、聖霊の働きの範囲からいえば、それでも、何の準備もない聖書の解き明かしを、主は歴史のなかでどれだけ多く用いられてきたことでしょう。主のみ業の不思議を思い、そしてただ主の御名を褒め称えるべきです。