Tokyo 4月21日(土)
         
  優秀なロボット
  
  ロボットがどれだけ最新技術を集めて“人格化”できるのかというテーマがあるといわれます。
  すこしネガティブな面を忘れてはいけないと思います。
  学校では、考える力を奪われたうえで、指示されたことを正確に記憶して、完璧に再生して実行できる能力を備えた人。そのような人を大量生産するのが学 校の役割であるというところに焦点をあわせてみましょう。
 聖書的思考というと、キリスト教の界隈に狭めているようにきこえますが、むしろ反対です。自分で考える力が引き出されるのがねらいとされるからです。
 “はたして本当かどうか、自分の頭で考えて検証する”という態度は、アポロにみられた態度であり、いいかえれば自分の頭で考えさせないような教育目標を もつところで、ほんとうの教育は死んでいるとみなされるのです。
 ナチスドイツがユダヤ人を機械のように大量殺戮することさえ厭わなくさせた洗脳教育が歴史に実在していました。日本の場合は、「現人神」。天皇は人の姿 をとった神であり、当時の日本人にとっては命令さえあれば喜んで命さえ捨てるような“ロボット化”がみられたのでした。
 ホームスクーリングがめざすところは、子どもたちが親に従順であることろから出発します。それが親の指示に従わせるという、いいかえれば常に親の顔色を うかがわなければ行動できないような子どもを育てるのが目標ではないというのは言うまでもありません。
 聖霊は、人の内側から、自分で考えて、判断して、行動に移したとき、行動のすべてに、聖霊の賜物が伴うように導きます。
 「聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ書)
 ロボットは、聖霊の実を結ぶことはできません。もしかしたら、それと非常に似たようなところまで行くのかもしれません。聖霊の働きとは、人の自由意志が 巻き込まれているとしても、現実には神の意志が実現しているところです。神のみ心が実現しているところには、「自由」があります。罪の力のもとにあっても 自由が擬そうされるかもしれません。

 ロボットを引き合いに出しましたが、ロボットが人に自由を与えると信じてきたのであり、ところが、「生活に自由が生み出されていく」というのは錯覚であ り、それは極論ではなく、生活全部がいろいろな機械にとり囲まれるということは、同時に、生活全部が、常に「機械の故障やメンテナンス」に縛られていくこ とを意味しています。
 強力なチェンソーのおかげで、人の手で数時間かけて倒された木が、わずか15分ほどで切断し伐採できるようになりました。木を切るための時間を短縮で き、余った時間をほかのことに回せると。
  ところが、木を切るために常にチェンソーを持ち出すようになると、今度はチェンソーにともなう故障に縛られ、さらにはいろいろな経費が嵩むのが避けら れなくなるのでした。一方で、昔ながらの「鋸」の可能性がどんどん廃れます。たしかに、ノコ一本だと、ある程度の太さしか切れませんが、機械やロボットの 登場によっって人が自由を得るばかりでなく、もともと人のもっていた自由を奪うという結果が生まれるというのも忘れるべきではありません。
 声認識だけでスマホを動かしていると、ついには、やがて指での端末への情報入力能力が劣化するのに似ています。
 ロボットが自動車を運転してくれるとなると、運転技術そのものが確実に劣化すると考えます。
  それは、車に搭載されたナビシステムが全部の道を詳細に教えてくれるので、人から「道そのものを覚える力」を奪ってきたの同じです。ナビはとても便利 ですが、ナビをつかうと、確実に道を覚えることができなくなります。
 テレビはもともと、人を教育するための道具ではなく、洗脳のための道具です。ほぼすべてのコマーシャルは、人の購買欲を刺激して、お金を出させるための 操作をおこなっているのであり、テレビの有害性というとき、自分の頭で考えない人を大量生産する面をもっているのでした。
 学校教育がもたらした光として、文盲の根絶があったとされます。けれども、影の部分として、知性の質を、“情報処理”というきわめて限られた能力に狭め てしまっているため、人をロボットのようにしか「認識と行動」ができないような場に変質しているのでした。
 ほぼ、すべてのカルト宗教も、人から考えること。とりわけ批判的に考える能力を奪います。カルトの指導者からすると、自己批判しはじめたり、指導者を批 判的にみるような“育てられ方”を一番嫌うのです。反対に、個人崇拝・礼賛をおしすすめて、ほとんど神の代理人か、それこそ神格化してしまうような現象が 歴史にみられました。