Tokyo 4月16日(月)
         
 内閣支持率がねつ造であり、本当に安部さんを支持している人は、日本にほとんどいないというのが実態でしょう。
 それでも、30%を切る数字が出てきたということは、数のねつ造を生み出してきた側も、安部利権を見放しているという意味で、安部さんの下野は確定であるとしても、何度でも言いますが、安部さんに“花道”などないのであり、これまでの犯罪をすべて白砂の上で吐かせ、公正な裁きのもとに晒されなければ、日本に正義は存在しないことになります。
 小泉二世が先代のDNAを受けているとしたら、「自分に注目させるための素材となるのであれば、正義であれ、たとえ悪であれ、利用する」というのが小泉流の真骨頂なのでした。歌舞伎役者をみるようにしか、政治家を見ることができないというレベルを脱しなければ、その程度の民度でしか政治が実現しないということになるでしょう。
 「政治とは聖書のいう“隣人愛”が発揮されるべき最先端である」(故・渡辺公平師の言葉)とされるのです。
 そうであれば、政治力が発揮されなければならないのは、さまざまな既得権益にあぐらをかいた利権構造に切り込みをいれて、国民の最善が実現できるような政治がみられたときでしょう。
 しかし、それは以下の3つの現状からみて、日本では、ものすごく難しい課題とされると思われます。
 第一。
 公明党=創価学会が、日本の隅々まで浸潤している現在、この国で法で定められた国民主権を内実化するための道がいかに難しい課題となっていることか。
 カルト集団が何を優先するかというと、自己保存です。自分たちが存続するためには何でもするのです。自分たちが存続し、安定した支配構造の一部に食い込んでいられるうちは、どんな手段でもとる。だから、卑劣といわれようが、コウモリと言われようが、彼らからするとそんな世論になどかまっていられないのです。どれほどの悪であっても身を守るためであれば、肯定されるという意味であり、もともと、「目的のための手段は選ばない」というのがカルト集団の特色であるからなのでした。創価学会にとっては、既得権益の御輿を担ぐ役割が大切なのであり、国民のための公益など、自分たちのやったことの成果を自慢するためなのであり「公明党ががんばったので・・・ができた」とかせいぜい「外部アピールのための看板」か「仲間を引き留めておくための方便」にしか過ぎません。
 第二。
 カルト集団の“利用価値”を認めてきたのが、米国であること。つまり、公明党=創価学会が権力構造に組み込まれている長年にわたる国民主権にたいする歪な対抗を、あたかも許容しているような勢力が米国内に存在するというところがさらに政治現象を理解することへの難しさの背景となっています。命令されたことを、忠実に果たす精鋭集団であると自己推薦しているのであり、洗脳教育により自分の頭で考えることをしない人材が排出されています。しかし同時に、金もあり、利用価値のある日本のセクションの隅々に組み込まれてきているうえに、極東地域であって米国本土が悪影響を受けることもないとなれば、利用されないはずはありません。巨大化したカルトは、潰すのではなく、米国の手先として利用できる限り利用したほうが、米国のためになると値踏みしているのです。それはモルモン教の米国における存在理由とも重なります。
 米国による実質的支配が継続するためには、米国からみて「悪」とみなされる勢力さえ利用されています。
 これが仮に、米国内であれば、決して許されなかったとしても。
 第三。
 それは、キリスト教界内部の問題です。
 日本におかれている教会が「塩気」を保てないのです。リベラル神学に基礎をおいた、いわゆる社会福音が、聖書の権威を攻撃する勢力の片棒を担いでいるた め、政治の分野で、聖書的なビジョンを語ることが不可能のようにみなされています。過去の歴史を真摯に悔い改めることをさせない、“歴史修正主義=歴史改 ざん主義”の影響下で、日本の過去の外国侵略を美化するような世論に加担するキリスト者が少なからず存在し、賛同するキリスト者も決して少なくないと思わ れることです。1%を超えるかどうかではなく、問題は中身。キリスト教会が、日本の学歴信仰や官僚主義をバックアップしている勢力で もあるというのが、日本のキリスト教そのものの“堕落”を示唆していると、いったいどれくらいのキリスト者が認識できているのでしょうか。もしも世の価値観と歩調をあわせて、いい気になっているとしたら、それこそが教会の堕落を示しているバロメーターであり「見える証拠」なのです。
 キリストにおける真理性とは「実在についての真理」なのですから、キリストの名において、もともとどの分野でも人目をひく成果があがる優秀さをもつのはあたりまえです。それで、結果として、世の人が褒めるようなステータスにあるとか、(何度も繰り返しますが)そんなのはもともと、キリストにある価値観からすると価値がないのに等しい。
 世の価値観に寄り添い、世の人々から注目され、ほめたたえられるような分野に“キリスト者が食い込む”ことをキリストの栄光のためであると誤解した結果、キリスト教会が、世にあって光を失い、“塩気”を保つことが不可能になっているか、きわめて限定的なものになっているのでした。ミッションスクールが軒並み偏差値の高い学校となっていると得意になっているところでは、そのような“満足”そのものを、一旦、聖書 的フィルターをかけて、全部洗いなおしてみるべきなのではないでしょうか。いえ、そんなことは不可能だ・・・もう手遅れなのではないかという焦燥感さえ感 じます。