Tokyo 4月15日(日)
         
聖書の女性  ディナ (創世記33章18節〜34章3節1)

 ディナは、レアとヤコブとの間に生まれた娘でした。やがて、一つの部族の存続を危うくするようになる事件は、直接的には、ディナによって引き起こされた といっていいのです。
 もともと、ディナは、カナンの性道徳の乱れについては、父ヤコブからも教えられていたでしょう。そして、偶像礼拝者であることにより、性についてのコー ドを全くもたないカナンの男子とは絶対に交際してはならないという“十戒の倫理コード”の意味を承知していたのでした。少なくとも、この事件がおこるまで は。
 事件があった日、少なくとも、ディナは、シケムに住む娘たちと過ごすために出かけたと思っていたのであり、“恋のアバンチュール”などという父への反抗 的な態度はなかったのでしょう。
 何であれ、人の罪は、最初から重大なのではありません。いえ、罪は、たわいない、些細な動機をつかって入り込みます。
 それにしても、ディナのレイプ事件が発生するその水際、つまり、彼女が家を出るときに、家のものたちがディナの行動がわかっていたかどうか、聖書に書か れていません。でも、しかし、ディナに危機感がなかったとしても、では何ゆえに、ヤコブの家のものたちは、ディナが「カナンの娘達に会いに行く」というこ とに危機感をもたなかったのかといぶかしく思います。
 現代におきかえるなら、非キリスト者との交流は、こちらがしっかりしていれば無害だという考え方があります。ディナにも、そしてディナの家族には、きわ めて安易な楽観主義があったのです。
 いえ、むしろ、伝道のため、人を助けるためにであれば、問題がある人たちとの交際をむしろ避けてはいけないといって、非キリスト者との交流を積極的にお こなわせる。いえ、現代のホームスクーリングを理解するという意味で、反対に、たとえばあえて学校に子どもをやっている親たちの動機は、「彼らは想定して いるより無害」、「自分たちの信仰を、クリスチャンでない人たちに、積極的に証しする場面があるなら、それを避けてはならない」ということでした。
 そのような楽観主義にたっているがゆえに、たくさんの熱心なクリスチャンホームで生まれ育った子どもたちが、意気揚々と学校生活を送り、やがて、信仰を 失い、世の倫理観、とりわけ乱れた性倫理を易々と受け入れてしまいます。ところが、親たちは、そんな悲惨な事実と直面しても、前提となっている考え方、つ まり、教育論や学校教育論について、わずかな変革も反省さえできないまま、“摂理論”つまり、神が曲げたものを誰が元にもどせようかという偽の信仰に逃れ の場所を見いだすしかなくなるのでした。
 
 ヒビ人、ハモルの息子シケム。ディナが好きになり、しかし、それに留まらず、ディナを力ずくで捕らえ、強姦しました。
 彼にとっては、自分のものは当然自分のものであり、他人のものも自分のものです。手に入れたいと思ったら、たとえ力ずくでもという、ハモルは、土地の名 士であり、その息子のシケムは、やりたい放題のわがままに育った、まさに“どら息子”でした。

 シケムは、ディナと結婚したいという願いがおこりました。いわば“できちゃった婚”。現代の非キリスト者にとって、それは何の問題も感じられませんでし た。むしろ、血気盛ん、現代的にいえば、“結婚の新しいスタイル”とまでいえてしまうのでした。ヒビ人たちも、どら息子が、ディナと結婚したいということ で、陵辱事件のことは一切問題にせず、なんともノーテンキにも、父ハモルは、「あなたの娘ディナと、息子ハモルを結婚させてください。婚姻関係を結び、親 戚となりましょう」「結納金でもなんでも、望み通り払うので、どうか結婚の許可を」とまで申し出たのでした。

 しかし、当時のイスラエル民族にとって、強姦はそれだけで死罪であたり、ディナの心も、深く傷ついていました。ヤコブの息子たちは、妹が陵辱されたとみ て、“ハモル一家の皆殺し”をもくろみ、それによって、旧約聖書のなかでも最悪の復讐劇が展開されることになります。
 彼らは騙していいました。「ディナとの結婚は受け入れよう。しかし、そのためには、一つ条件がある。すべての男子が割礼を受けること。それによって、親 戚関係を結ぶことができる」と。ディナと結婚したい一念だったハモルは、彼の町のすべての男子に割礼を与えさせます。ヤコブの息子たちは、男子が全員が割 礼を受けて、まだ割礼の傷が痛んでいる時、難なく男達全員を剣にかけて殺し、そこに軟禁されていたディナを連れ出したのでした。
  ついでに・・・とはいえないですが、ヒビ人の子どもや女を捕虜とし、その所有物である家畜を奪ったのです。妹が陵辱された仕返しという「大義名分」 も、その土地に、イスラエルへの新しい敵意の連鎖が生み出されるという泥沼を生み出すことにたいし、為す術がありませんでした。 

 「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」とパウロはいいます。不倫の恋や、“できちゃった婚”が、あたかも憧れの対象のように崇めることが世間にま かり通る時代において、聖書的倫理観は、私たちにとって死守しなければならないのだと、ディナ事件は教えてくれるでしょう。それに、敵意の連鎖、そして新 しい罪の連鎖さえもが、ディナの思いつきのような軽薄な行動によってひきおこされたという事実を、とりわけ、未婚のクリスチャン女性達は自覚しなければな らないと思います。