Tokyo 4月14日(土)
         
 
  東京裁判
   東京裁判にみえる大きな欠陥は、“勝者が敗者を裁く”という論理でした。
 そこにいったい客観的な正義が存在するのか、敗者に屈辱を与え、敗退したことを思い知らせ、同時に、勝者の地位をより確実なものとすることをねらってい るのではないかというものでした。
 東京裁判史観とは、すなわち、そのような米国サイドからみた戦争の総括なのであり、たとえば米国によって、まだ実験中であったのにもかかわらず原爆が実 践試用され、戦後、実地調査という名目で、人体実験の結果を調査したのは、ほかでもない米国のやっていたことでした。731部隊の戦争責任は明白にされな ければならないとしても、米国による“人体実験”がまさにヒロシマとナガサキにおいておこなわれていたのではないかという指摘は、全く的はずれというのでもなく、東京裁判が勝者による一方的な裁きであり、正義がないのではないと指摘されたとしても、あながち全部間違いだというわけでもないのです。
 けれども、東京裁判にみられる“史実の発掘”が、すべて米国勝者史観というバイアスがかけられていたのかというと、わたしはそうは思いません。戦争のな かで日本軍がおかした“犯罪”ともみえる非戦闘員への犯罪行為は、どうひいき目に見ても、事実をあかるみにするための絶好の機会だったとしかいえません。 つまり、日本軍は敗戦色が濃厚になってきた段階で、大本営発表とは裏腹に“戦争犯罪とみなされるすべての証拠を隠滅せよ”という命令を出していたのであ り、証拠隠滅をやってきたのは、なにも今の安部内閣からはじまったことでもなく、祖父の岸さんの代に、敗戦処理のなかで、大本営が範を示していきたのでし た。あったものを無かったとし、存在していなかったものをあったと言い張るという情報操作を受けていない空間が、戦後どこにあったのかといえば、ひとまず は東京裁判のなかであかるみにされた“史実”に目を向けることからはじめられるべきなのだと考えます。
 それを勝者である米国の立場から解釈するのではなく、日本民族の“罪認識”を明確にするための材料とすることはできるのではないかと思われます。「史実 の発掘」が東京裁判の枠組みを乗り越えるべきでしたが、日本にとって都合の悪いことか目を背けて、自分たちの手でつくったといわれる戦後すぐの改正憲法で さえ戦前戦中体質をそのまま残したものしかできなかったのではありませんか。
 東京裁判史観を批判しているはずの「日本会議」の指向しているところが何であるかと問えば、安部さんにもみられるように120%米国にしっぽを振るよう なものすごく“みっともない”態度ではありませんか。かの石原元都知事が勇ましいことをの言っていたにもかかわらず、“米国の富に死ぬほど憬れているよう な生活態度”は、矛盾だったというよりも、それこそ、たてまえは民族愛を言いながら、日本民族を心から愛しているわけではない人々の本音と重なっていたの ではないでしょうか。
 東京裁判によってあかるみに出された日本の歴史の暗い事実に目をむけて、明確に過去の罪を認めるところからでないと、未来も見えてこないと確信していま す。過去の戦争犯罪を隠蔽し、日本民族をただ礼賛したいというだけでは、結局安部さんのように“勝者へのしっぽ振り”しか脳のない、無能の輩を生み出すし かなかったのであり、罪を誠実に認めることは、現在と将来にたいして誠実な態度の基礎となるというのは、それこそが、(あえてキリスト教的とはいません が)、日本民族が繁栄して、さらなる幸いを得るための礎石になるのではないでしょうか。
  東京裁判史観を否定するところに、たとえば“民族主義”をもって、あたかも東京裁判史観に対峙したような言い方をしている人々のなかに、皮肉なこと に、米国への追従、米国にしっぽをふる忠犬である=忠米国主義という実態を隠そうともしていない姿がみられるのは実に皮肉としか言いようがありません。
 民族主義という言い方を好まないキリスト者もおられるでしょうけれど、キリスト信仰は、本当の意味の民族愛を育てます。それはキリストからすると、日本 民族を滅ぼすことが“限りなく惜しい”、“命を焼かれるような痛みを覚える”であろうと思われるからです。
 キリスト信仰こそ、ほんとうの意味の民族主義の母体となれると確信します。キリスト者でなかったとしても、日本民族を尊び、その繁栄を心から願っている のだとしたら、その心はキリストのものから決して遠くはないでしょう。
 東京裁判をどう見るかということより、東京裁判によって米国支配がやりやすくなったとみて、日本民族を“使い捨て”にしたい米国人のある支配層が存在す るとみられるのであり、このような見えない影の勢力と闘わねばならないと思われます。

米国によるシリア攻撃開始
 「罪のない人たちにたいして、大量殺戮兵器を使用した」という大義。なにをか言わんや!
  このような攻撃の結果として、いったいどれだけ“罪のない民間人”が殺戮に巻き込まれたことか。米国にとってはそんな他人事、おそらく調べる気さえな いでしょうね。
 これは、すでに、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下や、とうの昔に東京大空襲で実証されているのではありませんか。罪のない人たちへの攻撃に手を染めている はむしろ米国です。
 どれだけ戦争屋が暗躍し、どれだけ戦争をしたいのでしょう。要は武器商人として大もうけしたいという、ただそれだけのために、攻撃をしかけているとしか 思われません。戦争屋のいつもの手です。ひとまず内戦が引き起こされるような対立を見つけて双方に武器供給をおこない、黒子として内戦の舞台を仕組んだあ と、内戦で疲弊した国に上がり込んで和平のもとに、復興支援でまた漁夫の利でひともうけするというやりかただったのであり、そこに見えるのは歴史に一貫し た侵略者の姿なのでした。
 そうはいっても、わたしは根から反米ではありません。むしろ逆です。日本でホームエジュケーションを実践するひとりとして、ぜひとも模範とすべきだとい う意味で、真摯に尊敬できる国だからこそ。念のため。