Tokyo 4月6日(金)
         
 右手のしていることを左手に知らせてはならない
   “善行”を、自分がいかに凄い存在であるか他人に知らせるための材料としているパリサイ人をみながら、主イエスさまは弟子たちに教えておられるのですが、なにも、善行のずべてが自分のものでないかのような“振りをしなさい”と教えているのではありません。
 「良い来ないさえ、自分から出たものではなく、神からのたまものとして与えられている」という考え方から来ているのでした。良いものは、すべて神からくるのであり、感謝すべきです。良いおこないには、たとえば慈善活動も献金も、褒められるべきことであり、賞賛されるべきことが含まれるのです。すべて、良いものであり、他人が賞賛するとしても、受け入れるべきなのですが、自分のやっていることすべてを、“自分の功績”にできないのですが、すべてについて、主のすばらしさを褒め称えるための材料にすることはできます。 
 ただし、自分を大きくみせたり、自分を引き立てるためのアイテムとしてもならないとされるのでした。
 これは非常に難しいことでしょう。
 人の世では、誰もが自分のために生きているからであり、学歴であれ、褒美であれ、お金であれ名誉であれ、他人から褒めてもらうのが目標であり、人から褒められるようになるためにやっているのであり、自分を褒めることに何の躊躇うことがあろうかと。
 いえ、すべて主からの賜物であれば、主の栄光を証言するために、自分の過去の栄光を披瀝したからといって、罪と後ろ指をささえるようなことがあろうかと。
 牧師が講壇から語る説教についても、主の栄光のためではなく、実は、主の名を語りながら、実は牧師が日頃から自慢したくてたまらない話を披瀝しているのと何もかわらないという現象は、古今東西どこにでもおこりえます。あえて名指していえば“ビリー・グラハム的”説教とでもいいましょう。有名な誰それと知己であるとか、ファーストクラスで外国に行けるような立場にあるとか、著名人とゴルフをやったことがある。キリストの名を称えるためといっていますが、そうではないでしょうキリストの名を語りながら、自分がどれだけ“凄い”存在であるかをそれとなくアピールしているだけなのではありませんか。 
  聴いた人が、「誰によって語られたのか」記憶がないが、ただ「このみことばはすばらしい」という記憶だけは残されている。
  そいうのが理想です。
  ですから、右手のやっていることを、左の手に知らせるなというのは、罪をもって生まれた人にとっては、ものすごく難しい、それこそレベルの高い要求なのです。「断食している」とか、「献金している」とか、できるだけ人に知られないようにという意味なのでしょう。
  キリストに属するものとされるとは、キリストのもとにあることの栄誉と祝福の大きさのゆえに、すべてを相対化してしまう立ち位置におかれることを意味しています。
 褒めてほしい人には、勝手に褒めさせておけばいいのです。
 なにもこちらから拒否することなどありません。
 人から受ける栄誉も喜んで受けていいのですが、それをキリストより上のものとしてはならないのでした。
 聖書の言葉のゆえに、人の褒め称えられるところを拒否したり、軽蔑したりするとかいうのも、これはこれで、聖書を別の意味で曲解していることになります。
 大きな業績をあげた人に心を留め、賞賛に値することに心を留めるべきだからです。それが信仰と矛盾することではありません。
 ところが、「自分を大きくみせて、人より自分が正しく、優れている」という人にたいして、主がご自分の心に引き起こされるであろう“不快感”は並大抵ではないと推察されます。いえ、おそらく、そんな傲慢不遜な人さえ、人の想像をはるかに超えて我慢されるかもしれません。主の心は偉大であり、その大きさを推し量ることさえできないからです。
 どれほど優れた業績をあげようとも、どれほど大きな善行や献金がなされたとしても、すべてが主からの賜物であり、主を褒め称えるための材料とされるべきです。