Tokyo 4月4日(水)
         
 受けるより与えるほうが幸い

 使徒の働き20章。エペソの長老たちにむけられたパウロのメッセージのなかにみえる言葉です。
 プレゼントを受けるのは、どんな機会であれ、誰からであれ、うれしいものです。けれども、「自分が使わないので」とか「自分がこれが嫌いなので」とかいって渡されるのだとしたら、うれしいとは思わないに違いありません。捨てるのには惜しいので、もらってくれとかいうのも、同じで、いただく側としては、どれほど必要があってありがたかったとしても、心底うれしいという感情とは異質の、なにか軽蔑されたような不名誉さえ感じることでしょう。
 どれほど「与えるほうが幸い」といっても、ありあまったものからではなく、「自分ももらえたらきっとうれしい」といえるものをプレゼントするのが、相手にとって最善なのだと考えます。
 それが、こちらから贈り物をするときの大原則なのでしょう。
  もし、自分が与える側だったとしたら、「もし自分がこれをもらったら最高にうれしい」と思うものを、贈り物とするべきです。

 アベルとカインの捧げものについて、ささげられた側の主なる神が、アベルのものを受け入れ、カインのものを退けられたのは、アベルが最良のものをささげたことにたいして、カインは、たくさんあったもの、つまり、、失っても何の損もなかったからだと考えます。
 神につくられた人においても、最善のものを受けることが喜びとされるのは当然です。
 それで、ギフトには「これをあげるのは惜しい」とかいう感覚が伴うかもしれません。これはわたしの大切なものなので、ほんとうは惜しい。けれどもあなたは、私にとってかけがえのない人なので、あえて惜しいと思わず、あなたにとって最善なものを差し上げたい・・・という意味でしょう。
 
  最初に聖書を引用したのですが、もうひとつのキリスト教的な贈り物の特徴として、“ギブ・アンド・テーク”を考えないということも大切なのだと考えます。つまり、こちらが与えたものの見返りがあるのが当然とは考えないのです。もしかしたら、心を込めた贈り物をしたにもかかわらず、裏切られるような行為をしたとしても、贈り物をしたことそのものを決して後悔しないことです。
 日本的習慣として、相手への返礼を当然のことにように受け止めて、返礼がないのは無礼にあたると考えられるでしょう。
 わたしは、お歳暮やお中元など、お世話になった方に感謝をすること、つまり、お返しをするという習慣が、日本のとても美しい文化であると考えます。しか し、ギフトそのものを返礼なしに、つまり、心を込めた贈り物にたいして、あいての心を完全に受け入れたことのあかしとして、心からの感謝を伝えるものの、あえてものをもってお返ししないことも、相手にたいしての礼儀のひとつなのだとも思います。
 このような“親切”が存在するのかと訝しく思われる方がもしかしたらおられるかもしれません。
 人のためにおこなう親切やプレゼントは「天に宝を積む」ことになるのだと信じているために、人からの見返りを期待しないのです。いえ、心を込めた感謝の言葉以外に、あえて返礼などしないことにこそ、ギフトをした方の心を真実に受け止める本来の“仕方”だというのが、聖書的な親切。聖書的な善行のありかたなのだと考えます。 
 
 受けることを期待していたとします。待っても待っても、誰も何もしてくれないとか。そんな取り残されたような気分に陥っているとき、ひとつ「受けるのを待つ」ではなく、「どのようにして与えるか」を追い求めてみたらいいかがでしょう。たぶん、あなたのなかにも、それがどこからくるのかわからなかったとしても想像を超えた幸いが心に生まてくるに違いありません。
 たくさんもっているからお裾分けするのも結構なことです。しかし、たとえどのようなものであっても、心のこもった最善を与えたいと願ったとき、主はそれを祝福で包んでくださるのです。
 人はもともと、「受けるより与えるほうが幸福になれる」ように創造されているというのが、わたしの信仰でもあります。ただし、相手にとって「親切を装った押しつけ」くらい迷惑なものもないのですが。いやはや・・・どうも難しいですね。

 歴史修正主義
  正確には、“修正”とかではなく「歴史改ざん主義」と呼ばれるべきでしょう。
  史実をねじ曲げ、自分たちの都合のよいように、嘘でかためて、歴史の記述を改ざんしているからです。
  安部政権は、いまや日本民族そのものを根から腐らせようとしています。