Tokyo 3月31日(土)
         
永続的な利益を生み出すために

 会社がどのように利益を生み出すかということを、最近ずいぶん考えさせられているのですが、顧客を増やすための努力の基点をどこにおくのかによって、方針が変わってくると考えるようになりました。
 つまり、顧客中心なのか、製品の品質なのかというところ。とうぜん顧客のニーズに応えることが“即戦力”となるのはいうまでもありません。顧客のニーズにたいして究極的に応えることが会社が利益を生み出すための基本なのは承知の上で、しかし、もし“ニーズ”に応じた会社経営をしているだけだと、時代を超えた品質が生み出されるのかというところが疑問です。最近、良い製品とは、顧客満足だけを追いかけているだけでは生み出されないと考えるようになっています。
 お客様が当座必要としている製品とは、質が良く、しかも安価なものでしょう。安かろう悪かろうといわれる100円ショップでも、製品開発がすすんでいて、良い品がたくさん生み出されるようになり、安価だからといって軽視できないのです。
 ところが、“良いものをできるだけ安く”という相反する2つの馬を走らせているところでは、場合によっては迷走する危険があるように、利益にとらわれず、とにかく製品の品質を重視してのものづくりをすると、おそらくみための利益はすぐにはあがらず、製品開発のために費用が嵩むという不安材料さえ生まれるでしょう。
 「金に糸目をつけないから、良い製品を開発してくれ」と常にいえるほど、会社経営は甘くはないのです。それは大切なのですが、売れるかどうかだけを基準にしてばかりいると、どのような会社でも製品の質が下がるのは定石のようなものなのでした。 
 人を使い捨てにするような会社があります。
 なにも、「ブラック企業」と呼ばれる会社ばかりでなく、安く人を雇い、支払いを安くして、利益を生み出そうとしているのですが、人が入っては辞めていくを繰り返すたびに、ついに“A会社の品質”とういいならわしが定着するほど、“A社の仕事は、クレームが多い”という質の劣化を招いてしまったのです
 経営者としては、人材は都会には余るほどいるので、少し募集したら入ってくる。もし辞めたとしたらまた新しく募集して雇い直したらいいとなるでしょう。
 都会ならではの人の回し方と言われるのですが、田舎であれ都会であれ、人が満足して働けない状態は、結局、うみだす製品の質の劣化につながりると考えます。
 地味で遠回りとみえるかもしれませんが、パートであれ社員であれ、従業員が満足して働き続ける会社の体質を守れるのであれば、たとえ目先の利益はすぐに上がらなかったとしても、働いている作業者の満足度の高さは、必ず製品なり、サービスなりの向上につながるはずであると確信しています。
 ひとつひとつの仕事を、納得のいくように完成させていくことは、もしかすると“顧客サービス”という視点からいくと劣化を生み出すかもしれませんが、中長期的にみると、品質の向上が生み出されるように経営転換しておくほうが、結局利益を生み出す体質に繋がるのではないかと思います。
 テレビが利益を生み出す時代はすでに終わりを迎えていると考えます。
 マスコミ業界や新聞業界が廃れることはないとしても、インターネットの時代において、用なしになるのは時間の問題なのかもしれません。相撲や野球よりサッカーに強い関心をもつ若い世代が社会を動かすようになると、相撲も野球も業界としては斜陽化していくのかもしれません。生き残りをかけた熾烈な闘いのなかで、良い品質を追い求めるのは当然でも、そればかり追いかけていられないというのが経営の立場です。
 いかし、スティーブ・ジョブズの解雇劇が、結局会社にとって不利益となったように、提案が良いものであるかどうかのみきわめこそが、経営側に求められているのでしょう。
 時代の変化のなかで、“いつの時代でも、時代を超えて継承されていく”事物があるのだとしたら、そのときに人気があるかないかとか、多数の意見がどうのではなく、職人の目線で納得のいく製品が実現できるのかどうかであろうかと思います。それが、愚直なまでの職人気質だとしたら、それこそ日本民族が未来に生き残るための、大切な世界からの期待のひとつなのではないでしょうか。  

 友はどんなときにも愛するものだ
  
 安部夫妻と、籠池夫妻とのかつてどれほど親密だったかなど、多数の人々に周知のことであり、朋友以上の関係だったのであり、だからこそ、無関係であると公表し、その上、長期にわたって自由を奪っているのには、“あったこともなかったことにしたい”という、いまや安部さんに特有の、ほんらいの日本人の性格とは相反する不誠実があらわれているのでした。
 わたしは、籠池さんの理解者でないどころか、教育勅語を礼賛するような教育を徹底して排除したいという考え方です。それでも、籠池さんが受けた「安部さんからの友情」が深かったと推察されるだけに、徹底的に排除され、裏切られたという思いは強いに違いありません。
 最も困難なときに助けてくれた人に恩返しをしたいということより、友情が試されるのは、順風のときではなく、むしろ逆境に陥るときであり、ヨブの友人たちが災難にあったヨブを見舞ったとき、友人たちのアドバイスにそれぞれ欠点があったとしても、災難にであったからといって、蜘蛛の子を散らすように離散していくことから、“友情”の質が問われるのでした。
 友が逆境に陥るとき、ギブアンドテークの、それこそお金で繋がる関係だったのか、名誉が自分のところに転がり込むと算段した結果、友のように振る舞っているかが問われるのでした。キリストは、弟子たちに「あなたがたを友と呼んだ」と語られ、友のために命を捨てるとまで語っておられます。キリストを友と確信できているのであれば、どれほど強い味方を得ていることになるのでしょう。