Tokyo 3月19日(月)
         

 2018年3月18日 第三主日 調布南教会 礼拝メッセージ

説教 聖書の女性 (3)
 サラの笑い

 笑いが健康のために良いということで、笑うことだけのためのサークルがあるのだとか。現実を逃避するための笑いは、日常的にみられるでしょう。
 落語家のつるべさんが、「かつてのクレージキャッツのような質のいい笑いが少なくなって残念だ、最近は下品なネタに笑いを求める芸人が多くなって残念 だ」と嘆いておられたのですが、今の時代が 心の底から、うれしさを伴って笑うことが少なくなっているとしたら、心が渇いているのでしょう。ここに、ひと つの解決があります。それが、信仰に裏打ちされた心からの笑いです。
 
 聖書の女性ということで、アブラハムの妻サラにおこった出来事から学んでみたいのです。
 ソドムとゴモラの町が、罪に罪が重ねられ、ついに天からの火によって滅ぼされるという出来事があった直前に、主は三人の天使の姿をとって、アブラハムの 住まいを訪問したのでした。

常識の壁

 3人の使いは、アブラハムからもてなしをうけ、その給仕は召使いたちがおこないました。おもてなしの時間は、妻サラは天幕のなかにいたのでした。
 天使の言葉を用いて、主のご計画があらためて語られたのです。
 女奴隷ハガルによって、アブラハムは長男のイシュマエルを得ていました。
 主は、それでもサラによって生まれる子どもが、約束の継承者になると語られたのでした。再び99歳になったとき、アブラハムにたいして、サラによって子 どもが生まれるという言葉がありましたが、サラはすでに89歳になっていました。
 アブラハムが86歳のとき生まれたのがイシュマエルであり、イシュマエルはすでに13歳になっていました。
 約束の言葉を受けたとき、アブラハムが笑ったと書かれています。
 笑った理由は、主の約束がまともとは思われず、現実ばなれしていたと思われたからでした。常識からいえば、子どもが生まれるような年齢ではなかったから です。
 天使たちは、アブラハムへの約束を繰り返し「わたしは来年の今頃、必ず帰ってくる。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている」と言われたので した。 
 サラは、アブラハムの背後にいて、お話に聞き耳をたてていたに過ぎなかったのですが、サラは笑いをこらえることができませんでした。
 聖書に書かれていることで、心にとめておきたいのは、ただこころのなかだけの笑いだったのに、主が「どうして笑ったのか」とアブラハムに問うているとこ ろです。
 ひとつの真理は、人の心に思い浮かぶことのどんな小さなことについても、たとえ、人の耳に聞こえなくても、主のみ前に無視されたり、主が聞き漏しておら れることなどはなにひとつないということです。
 主は、アブラハムと妻サラのこころのなかに何がおこっているか強い関心をもっておられるのです。


 入り口にたたずんでいたサラに、「おまえは笑ったのか」とこのことを問いただすと、サラは、「笑いませんでした」と事実と違うことを言いました。
 サラの嘘が、どこからきたのかというと、すぐ後に、「恐ろしかった」と書かれています。
 そのサラの笑いを窘められるように、「いや、あななたは確かに笑った」とあえて語られているのです。
 主のご計画があまりに現実離れして、冗談のように思われたので、笑ったのだとしたら、サラのこころには、すでにアブラハムにも浮かんでいた見える現実 や、世間の常識だけにしばられた考え方によるのでした。
 主がサラの笑いを窘められたとしたら、それは、アブラハムもサラも、自分のもっている経験を超えた信仰そのものを受け入れられないところからくるのでし た。
 確かなことは、主は、信仰から出ていない笑いを受け入れておられないというところです。

不誠実な私たちに対して、真実なかたであるキリスト

 たかが笑い。しかし、サラの笑いは、現実に経験としておこること以外は認めないという「常識」がみられます。
それを見過ごしにせず、言葉で戒められた主がおられたのであり、主が求めておられるのは、信仰は見える現実を超越する態度だというところでしょう。
 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か。すなわち何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るため に、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
 主は、サラの笑いを強く責めておられるのではありません。どれほどわずかであれ、主の約束を疑うようなこころが生まれていることについて、主の側からす ると、聞き逃すわけにはいかなかったのでした。
 笑ったことを、笑っていないと言い出す。あったものをないものとみなすために、記録を書き換えるとか、事柄がなんであれ、主はどのような場合でもどのよ うな人にたいしても、不誠実を退けられるのです。
 歴史修正主義という言い方がありますが、実際は歴史ねつ造主義のような考え方です。あったのに「なかった」ように記録を書き直すとか。自分に都 合が悪くなると記録さえ、ねつ造しようとするとは、なにも現代日本の政治にはじまったことではないのです。


 主はサラのなかに生まれた信仰と相対するような態度がみられたからといって、約束そのものを無効にされるということは一切なかったのです。パウロは「私 たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」といいました。(第二テモテ2:13)

 たとえ、私たちのなかに罪の影響にあって、不誠実が生まれてしまったとしても、不誠実にたいして、不誠実をもってむくわれるのではなく、主のお約束が変 えられることはありませんでした。
 わたしたちの罪が軽く扱われるのではなく、重大な主への離反であるには違いないのですが、不信仰であってもたいしたことがないのではなく、信仰から出て いないことは罪であるとされているのですが、もし不誠実さが招いた不信仰があったとしても、主はわたしたちの側に罪からのものがあると、わずかな汚れがあ ることを条件にすべての恵みを施さないのではなく、主が選ばれた民にたいして、常に無条件に恵み深いかたであると承知しておきたいのです。

 サラの笑いは、冷笑的な道化のようなものですが、主は息子の名を「笑い」を意味するイサクとつけさせ、主のご計画にたいして、冷笑的な笑いしかできな かったアブラハムと妻サラでしたが、あらためて、パウロのいう、主の真実さにあずかり、そのおこぼれにあずかるかのように「ほんものの笑い」をお与えに なったのでした。
 天国のよろこびは、失われたものが取り戻されたようであるといわれます。私たちの心が、現実にだけ支配されて、冷笑的にしかなれない状態からも解放さ れ、他人を蔑んだり、傲慢さによってではなく、主のされた真実の業を中心とするときに生まれてくる心の底からわき上がる喜びに満たしてくださるのです。
 主は、わたしたちのなかにほんとうの笑いが引き起こされるのを望んでおられます。
 それは、主の約束が実現したところに生まれ、主がご自分のされたことをごらんになっておられるところに生まれたのでした。

 6:21あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うように なるからである。
 
 罪からくる利己主義の笑いではなく、人に利益がもたらされるのを自分の楽しみとし、ときは犠牲を伴った兄弟姉妹の交わりのなかに、主の恵みの業として実 現されていくのだと信じましょう。


天国に属する民として

 主は、地上の生涯で、悲しみや苦しみばかりでなく、かならず喜びや笑いをもたらすようなたくさんのプレゼントとして与えられるに違いありません。
主にあって歓喜に溢れるときも必ずあるでしょう。けれども、私たちにとってのほんとうの喜びは、天国にとってあると理解していたいのです。
 地上でいただく喜びや笑いがどれほどであっても、天国にあるものと比べものにならないでしょう。だとしたら、パウロが第一コリント書7章20節でいうよ うに、「泣く者は泣かないもののように。喜ぶものは喜ばないもののように、買うものは所有しないかのようにしていなさい」という意味もまた、笑うものは、 笑いすぎないようにという意味でもあり、地上の生涯でどれほどの喜びや富みを恵まれたとしても、それは天国の前味に過ぎないのだと知って過ごすべきなので はないでしょうか。

祈りましょう。