Tokyo 3月16日(金)
         
 受けるより与えるほうが幸い

 パウロがエペソ教会の長老たちを招いて、説教した箇所の一説にみえる言葉です。(使徒の働き20章)
 贈り物を受けるとうれしいものです。プレゼントの季節。母の日、父の日、誕生日もそうですが、プレゼントを受けるとき、うれしいくないなどという人はい ません。それが高価でなくとも、それこそ100円ショップで購入したものであったとしても、こころが“もの”によって伝えられるというのは、驚くべきこと でしょう。日本人にみられる“おかえし”も、日本人のなかに育まれたひとつの美徳だと思います。お返しをするところに、感謝のこころが表現されているから です。ところが、何も返礼をしないでいると、相手を非難するための動機となってしまい、いともたやすく“パリサイ主義”が入り込むようになります。「せっ かく与えたのにお礼もしてくれない」とかいって。与えることによって、予期しないこころの貧しさが生まれてしまうのだとしたら、どんなものでしょう。

 パウロは、受けることの幸いを軽視しているのではありません。
 プレゼントを頂くと人のこころに喜びがうまれるのです。
 パウロは、さらに、「与えること」がもっとすばらしい賜物であると伝えています。これがキリストの言葉であったかどうかはわかりませんが、キリストの地 上での生涯をひとことで言い合わしている言葉でもあります。
 誰からも与えられないと、自分が見捨てられているかのような不安や寂しさを覚えるかもしれません。
 そのとき、受けることばかりでなく、誰かにとってなにか良いものをプレゼントしてみたらいいかがでしょう。
 与えられない寂しさを覚えるそのとき、たぶん気にしなければならないのは、「おしつけられた親切」などにならないようにということです。つまり、相手に とって最善と考えていることが、受ける人にとってかならずしもベストではないということがあるのです。
 与えることは幸いですが、いくつか注意しておかなければならないポイントがあり、筆頭には、相手の最善とは何かが正しく判断できているかどうかがあげら れるでしょう。

 神はわたしたちの最善が何かを判断して、与えないこともされるからです。けれども人は、自分の思いこみだけで行動するような傾向をあわせもつのであり、 「おしつけられたプレゼント」くらい歓迎できないものもありません。とくに、かわいい子どものことを思う親の立場はしばしば「盲目」を生み出します。
 与えることが喜びをもたらすとしたら、たとえば、“褒めてほしい”という見返りのようなものを期待しないことです。プレゼントが自分への賞賛を引き出す 鍵であるかのようにみなされたとしても、仮にそうだとしても、与えるほうが幸いという原理は働くかもしれません。わたしは、世にたいして、聖書的キリスト 教が与えている影響の一つは、“見返りを期待しないで与える幸い”というところにある気がしています。
 相手から返してもらうことを期待しないところからでないと、あなたにほんとうの幸せはやってきません。
 相手から何かの返礼など、見返りを期待しないところから、プレゼントができるかどうか・・・欧米人はこの点での“文化的訓練”がみられるのです。いえ、 たとえキリスト教の影響が感じられなくとも、どのような人でも、人の生まれながらにもつ“幸せ構造”は、受けるより与えるほうが幸いなのではないでしょう か。