Tokyo 3月2日(金)
         
 新約聖書をつかって説教をつくる場合、ギリシャ語の釈義にどれだけ時間をかけているかが大切だと思われます。
 世に、優れた歴史的注解書と呼ばれるものがあったとしたら、カルビンの聖書注解がそうであるのは当然のことですが、聖書の原語についての分析をきっちりした上で、コメントしているかしないかが鍵となります。同じ意味で、旧約聖書の説教準備において、日本語訳するためのソースとなっている原語であるヘブル語釈義が大切なのはあえて言うまでもありません。
 たとえば“霊的解釈”とか“例話”だけをひっぱってきて、まるで空想話のような説明さえみられるます。自分の言いたいことに聖書を引き合わせるようなことをやっていたとしたら、それはもはや説教ではなくただの演説です。
 もともと、説教のなかで実際にギリシャ語の文法の説明が必要な場合はごく希です。冠詞や態や話法など、日本語では表現しきれない部分を、聖書記者があらわしているような場合など。説教のなかで、必要もないのに原語を言い始めるとしたら、ただの「自分はこれだけギリシャ語を知っている」みたいな自己顕示欲から、教養の強さそのものにメッセージ性を帯びさせているからであり、聖書が何を伝えているかなど全くおかまいなしに、聴いている側があきれるくらいの文法解説にあけくれるという、それは堕落した説教の姿であるのは言うまでもないと思われます。
 けれども、ではどれだけギリシャ語原文を下地として地道に学んで準備しているのかというところからいうと、原語の釈義を曖昧にした説教ではいけないと思うのです。「聖霊の語るところにおいて語るのであり、ギリシャ語による準備など、どうでもいい」とか語る牧師がおられなくもないのです。理解できなくもないですが、少なくとも、それは私が達している信仰ではありません。
 説教者からするとギリシャ語を紹介するとき「どうせ聴いている信徒にはわかるはずもない」というなんというか上から目線の、それこそ「ソフィストケイティッド」な雰囲気だけを信徒への威圧として醸し出すだけにすぎないのであり、キリストの香りとは全くべつの“異臭”を放つということになりかねません。釈義という見えないところにいかに手間暇かけているかが問われるのではありませんか?
 そんなことをふまえた上で、以下の文章は落書きにしかならないかもしれませんが、最近“中動態”という文法上の用語が話題になっているようなので、以前から、わたしのなかで気になっていたローカルなテーマを紹介していみたいと思いました。

 ローマ書3:9における中動態の扱いについて
  「ではどうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。」という箇所。ここの“優っているのだろうか”と訳されている proekho は、pro(〜に向けて)とekho(持つ)を合成した動詞であり、中動態。新改訳聖書の脚注にみられるように、「ではどうなのでしょう。私たちは他の者に劣っているのでしょうか。」とも訳せるところにあります。つまり、中動態の理解のしかたとして、「劣っているのであろうか」とも訳せるとされるのですが、ほとんどの英訳や日本語訳もほぼすべて「優っているのだろうか」と訳されています。
 パウロは文脈として「ユダヤ人の優れたところはいったい何か」を述べているのであり、ユダヤ人の優位性を述べつつ、それにもかかわらずユダヤのなかに存在する悪について、ユダヤが特別に扱われているのだから、悪をなしたところで、悪さえ神の善をいやますための道具とされるのではないかという議論について、ユダヤの罪が神の善を引き出すなどという言い方を「罪に定められる」といっているのでした。
 そこで、たとえば3節で「 ではどうなのでしょう。私たちは他の者に優っているのでしょうか。」と訳されるとすると、ユダヤ人の優位性を述べていたところであるので、どれだけ内部に堕落した要素があったとしても、それでも民族として優れているのだろうかという問いかけの意味になります。反対に「劣っているのでしょうか」といったときは、直前の議論、つまり、ユダヤ人の優位性にあぐらをかいて、罪を肯定するような輩への断罪をしたあとなので、天につばきを吐くような所作をするものどもさえ混在するようなユダヤ民族は「劣っているのか」と問うたことになります。
 ここであえて中動態がつかわれているのはどうしてなのでしょうか。自説としてだけでいうと、「ユダヤ人は、劣っているか優れているかというまえに、別の民族に比べて特別な何かがあるのか」と問いかけたのであり、パウロは9節以降で、罪についていうと、ユダヤ民族の優位性も劣等生も関係なく、褒められるか貶されるかに関係なく、どの民族であっても「義人はいないひとりもいない」という続く文脈の主旨と繋がるのでした。ユダヤ人はどういわれようとも、何も特別な存在なのではなく、罪のアスペクトからいい得るのはただひとつ、ユダヤとて他の民族と何らかわらないと言いたいのではないでしょうか。パウロの真意は、「罪についていうと、ユダヤ人を民族として特別扱いするような何かがあるのだろうか?」と問うているのだと考えます。