Tokyo 3月1日(木)
         
14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 15    あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と 呼びます。 16    私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 17    もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリス トとの共同相続人であります。(ローマ人への手紙 8:14−17)

聖霊によって与えられる神の子どもとされる特権

 ローマ人への手紙のテーマは、1:16に「私は、福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、同じすべての人にとって、救いを 得させる神の力です。」あるところ、つまり、福音はどの民族にとっても救いを得させることのできる神の力なのだというところにあります。
 このようなパウロの宣言は、ユダヤ人にとって、ひとつの怖れをもたらしました。それは、それまでイスラエルやユダヤと呼ばれる民族に狭く限られていて、 アブラハムとダビデを継承している民族に限られていた歴史を、全く塗り替えてしまって、すべての民族に救いをもたらす福音と宣言しているために、汚れたも のが入り込むのではないかという怖れであり、偶像礼拝が入り込むのではないかという怖れとなったのでした。
 さまざまな民族が入り込むことで教えの純粋さが失われるのではないかという怖れだったのであり、民族としての優れたところを認めつつ、傲慢さを捨てるよ うに教え、接ぎ木されたものが繋がることでどんな怖れをもつ必要もないと教え、その一方で、異邦人出身者たちにたいしても、本来繋がっていなかったところ が接ぎ木のように繋げられているのはひらすら恵みによるのだと教えているのでした。

 14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 15    あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。

 聖霊に導かれるものは、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、「再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく」と語りました。
 ユダヤの人々には、それまでもっていた律法主義や割礼という儀式に意味がなくなると考えて、律法や割礼にかえってしがみつくという現象が引き起こされま した。
 旧いものにしがみついてしまったのは、失うかもしれないという怖れがありました。失うものなど何もなかったにもかかわらず、イエス様の働きによって、す でに完全に価値がなくなったものにしがみつくようにさせるのも、パウロが「奴隷の霊」と呼ぶ悪しき霊の業でした。
 恐怖に陥れるような奴隷の霊というとき、わたしは、カルト集団いる信徒が、離脱できないようにされた状態を思い起こします。霊感商法が社会問題になりま したが、そのような恐怖で人を縛るような方法をとります。呪縛から逃れて、救いを達成するためにはお金を払うとか金品を買わなければならないとか、いろい ろな条件づけがなされ、恐怖によって魂が縛り付けられるのです。
 恐怖の連鎖が平和や幸福をもたらすことはありません。かえって、破壊とか残酷を引き出すのです。
 ホームエジュケーションを批判する人々が、いかに学校にしがみついていることか。つまり、学校から子どもたちを離脱することについて恐怖を覚えるのです が、学校信仰はすでにカルト化し、子どもの命が失われるほどにまで至るのです。そのような場合、学校への“しばり”は離脱することの恐怖が支配している状 態であるとみられるでしょう。
 カルトと呼ばれる教えの特徴は、恐怖がひとつの手段として使われるのですが、カルトの神は、憐れみと残酷の区別がつかなくなるというもうひとつの特色で す。バアル宗教は子どもたちを祭壇の生け贄としましたが、信じる側からすると、子どもを殺すことで、神の憐れみが引き出されるという教えなのです。学校信 仰とバアル信仰を単純に比較しようとは思いませんが、恐怖の増幅により、人から残酷さまでもが引き出される様は、まさにカルトの特徴を示しているのではあ りませんか。

 イエス様は、わたしたちが救われるために条件や何かの犠牲を強いる方ではありません。
かえって、私たちを救うためにご自分が呪われた存在となってくださったともいえます。
 それでも、たとえイエス様を信じ受け入れたとしても、人はすぐに完成されるわけではないので、怖れと闘わなければなりません。罪のなかにいた過去にもっ ていた形というか形式を温存していたいという心の働きでしょう。心ではキリストを受け入れたいのに、外側が拒否するという心の葛藤におかれていたと、パウ ロもこの手紙のなかで語っています。(7章)
 聖霊に支配されて、イエスキリストを救い主として受け入れたとき、私たちはすでに聖霊に支配されているのであり、それは私たちががんばらなければ維持で きない鎧を身につけるようにではなく、聖霊の支配のもとにおかれているのであれば、もう一度「奴隷」に引き戻されることはないのでした。
 再びという言葉が示しているのは、かつては奴隷とされるような状態にあったかもしれないという意味を示唆しています。罪のなかで、イエス様以外のいろい ろなものに支配されてしまいます。ドフトエフスキーは、賭博者という自叙伝のような小説のなかで、博打に支配されてしまう人の心理を描いています。ギャン ブルに支配されるというのはわかりやすのですが、験を担ぐとか、ひとつの拘りできてしまうと、何にたいしても奴隷となるのです。
 パウロがここで述べている「聖霊によって支配」は、わたしたちを神の子どもとするのでした。
 神様の子どもであるキリストと同等の扱いを与えてくださるという意味で、人が神になるというのではりません。神の子どもと同等に扱ってくださるというの ですが、ヨハネやパウロからすると、信徒が神の子とされるといってもいいのでした。
ヨハネの福音書は、ヨハネの福音書1章12〜13節で、
 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や 人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」と語りました。
 わたしたちは、信じたと自覚するかしないかだけであり、主の恵みの業からすると、わたしたちが地上に生まれる前に始まっていたのでした。


御霊によって、「アバ、父。」と呼ぶ

 聖霊は私たちを神の子どもとして特権をあたえ、そのひとつとして恐怖に支配されることはないと約束されています。最後まで闘いはありますが、もはや罪に よって支配されることはありません。
 ヨハネ14:18において「わたしは、あなたがたを孤児にはしません。」と語ります。 
 預言者イザヤは、イザヤ49:14 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」と語りました。
 もともとの罪の性質から、祈ることさえできなかったのですが、聖霊は、祈りの言葉を導いてくださいます。
 アッバとは、アラム語で、子どもたちが父を呼ぶ言葉で、日本語でいう「おやじ」「パパ」「おとうちゃん」「おとうさん」にあたります。
 わたしたちはかたくなであり、困ったときにかろうじて、神頼みすることしかできないからもしれませんが、聖霊は、私たちが祈れるように導いてくださる し、祈りについていうと、言葉にならなかったとしても、祈れないという不安に悩ませられる必要もないのです。
ローマ8:26〜27
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いう めきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこ ころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」 
 人が悩みを聴いてくれないと感じることは多いかもしれません。けれども、聖霊は私たちのそばにいて、心の言葉にならないうめきのような思いを理解してい てくださいます。理解して聴いておられるばかりでなく、主が最善の助けを送ってくださるように祈っていてくださるのでした。
 原則として、聖霊の心にかなう祈りであれば、これは神様に祈れないのではないかということはありません。

 御子とともにすべてのものをお与えになる
 17節に、「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人 であり、キリストとの共同相続人であります。
 勝利者とされた主イエス様において、私たちが彼のもとにあるなら、畏れから解放され、祈りを与えられるばかりではなく、御子とともに「すべてのものをお 与えになる」のです。
 ローマ8:32にこのようにあります。
 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことが ありましょう。

 神の子どもとしての特権は、神から愛されることであり、すべてのものを与えてくださるという約束です。最も大切な子どもを私たちに与えたのですから、あ とのものは求めるものであれば、叶えてあげるという、主の愛とはそのようなものです。
 8章の後半においてパウロが言ってる大切なポイントは、神の私たちへの愛を解消させるようなものは、何ものもないというところです。
 捨てられるのではないか。罪を犯したので、捨てられるのではないか。いえ、罪をおかしたら悔い改めなければなりません。罪から離れて、主の喜ばれるよう な生き方をしなければなりません。どれほどの罪があったとしても、神の愛から私たちを引き離すことができるようなものは存在していないと語られるのです。
  ギブ・アンドテークではないのです。
 キリストによる救いと、それによってあきらかにされる神の愛は、私たちに何かの引き替え条件を要求するものでありません。洗礼も正餐式も尊い賜物です が、洗礼を受けているから救われているとか、聖餐を受けなければ救われないということもありません。主は御子であるイエス様に、すべてをお任せになりまし たが、そして、御子といっしょに共同相続人とされたわたしたちにすべてをお与えになると語られているのです。