Tokyo 2月23日(金)
         
  「誰よりも妻を愛す」

  おそらくそのようなご夫婦をみることはごく希です。けれども世の誰もが憬れる理想のカップルであるとはいえます。
 相思相愛であり、同時にご夫婦とも美男美女である。
 わたしが、常に疑問に感じていたことに、つまり、キリスト教的価値観からすると、「誰よりも妻を愛す」という生き方は人の世では憬れのような生き方とみえたとしても、それは限りなく根本的な問題を含んでいるとみなされるのでした。
 一方で、りっぱな妻を得ることについて、箴言31章において、このように語られています。

 25  彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。麗しさはいつわり、美しさはむなしい。しかし。主を恐れる女はほめたたえられる。
さらに、 「 しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。」とも。(箴言12章)

 このことをふまえると、妻を主からの恵みと理解し、優れた点に惚れ込み、それこそ、誰より妻を愛してどこが悪いとなるところでしょう。

 ところが、新約聖書のルカ福音書において、

 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のい のちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26)
 
 おそらく世に愛妻家と呼ばれる夫たちが、キリスト教信仰そのものに“嫌気”を覚えるであろう聖書の箇所です。嫌気を覚えると言うより、あきらかな矛盾のように感じられるのではないでしょうか。聖書解釈において、人がそのとき理解できる範囲で「矛盾」とみえるだけであり、矛盾のように見えるだけだといわれるべきです。まして、聖書が妻を愛することを禁じているなどという人はひとりもいないのです。ところがわからないのは、主のよりも愛してはならないリストに「妻」が入っているところでしょう。尊敬すべき父、母、兄弟姉妹や、自分が入るとしても、最愛の妻をこれに入れるわけはいかない。キリストを愛するが、それでも妻をこよなく愛する。
 いや、もしキリストか妻かと問われれば、ためらることなく妻を選ぶ。もし、そのような愛妻家がおられたとしたら、世の憬れや夫婦生活の幸せとは裏腹に、あなたはキリストの弟子としてはふさわしくありません。
 日本人として、聖書を読み始めて、そして、キリストにつまずくような人々がいたとしたら、この箇所もその一つでしょう。
 愛する妻を、キリストより愛してはならないのかと。ところが、キリストの業において、世の夫婦関係すらキリストの愛からすると相対的とみられるのでした。夫と妻のあいだは、主が創造の最初から祝福された関係です。ところが、キリストと私たちの関係はそれにはるかに強いのでした。
  聖書の示す事は、なにも“性愛”とキリスト信仰を混同するなどということを言っているのではありません。創造のはじめから、神は夫婦における性的結合を祝福された完全に幸せなものとしてつくられたからであり、性愛と神の愛を混同する統一教会などのようなカルト宗教の聖書解釈が間違いであるのは明白です。
 ところが、やがて来る天国において、人はめとったり嫁いだりすることはなく、天使のような存在になります。男性であるとか女性であるということや、夫であるとか妻であるということは、地上に限定された事柄であり、天国には存在しないというのです。

 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。 (ルカ20:34−36)
  
  
ともかく、キリスト信仰の本質を理解するようになるまでに、人によっては、聖書を受け入れるのが困難であり、腑に落ちるまでには、おそらくたくさんの時間と経験を経なければならないのではないかと想像します。