Tokyo 2月22日(木)
         
  ベターとベスト
 ベターとは、いくつかの選択肢が見えるなかで、より優れたものを選んで選択する場合。それにたいして、ベストとは、文字通り最善であり、一つしかありません。ベターな選択という場合、選択をする本人が選ぶことができるのか、それとも選択そものもがあらかじめ操作され仕組まれたものかによって違うとはいえ、本人にとって選択の余地があるという自由感や、主体性が織り込まれているという意味になります。ベストであるという場合、これも自由な最良が任せられているかそうでないかによって、これがお前にとってベストなのだからと言われて受け入れざるを得ない場合と、もうひとつは、常に最善とは何かを判断できる場合。つまりプロフェッショナルの仕事として、常に最善が実現できる場合とがあるでしょう。
 これは抽象的な論理の世界ですが、「ベターよりベスト」と言われているような場合、選択肢が多いことが何か格下であるかのような印象がありますが、よりベターな選択ができるというところからくるいくつかの要素があり、たとえば多様性を受け入れるなかで、いくつかの落としどころが可能であり、同時に、自分にとってのベターかもしくはベストの道を選べるというところ、ベストがこれだとあてがわれるより、選択肢を示されたほうが良いということは、たとえば国が「教育の自由」をどのように制度化するかという場面では、ホームエジュケーションが合法化されている国のどこでも同じような“選択の自由”(たとえば英国法では、otherwise=学校かそれ以外の方法によって)が実体化するのでした。
 日本の場合、これがベストな選択であると上から言われるところを、いわゆる個性とか発達の差異への適応などを無視して、一律の教育強制がおこなわれているというところが問題とされるべきでしょう。
 職人の世界でいえば、常にベストな道を選択できるのが理想なのでした。将棋の羽生さんや、野球のイチローさんにも「ベストと呼ばれるのは一つしかない。その一つを見極めるのがプロの流儀である」(表現は違いますが)似たようなことをおっしゃっていましたね。
 常に、その場にひとつしかない最善の道が見えるというのは、わたしにとってもひとつの理想です。言葉ひとつを選ぶとしても、その場で使われなければならない言葉は一つだけです。つまり、たとえ意味が同じでも、語られている相手や、話の内容、それに文脈のなかで、最善の表現とは一つしかないということになります。
 政治家でいうと、立憲民主党の枝野さんは内容もさることながら、そのあたりもすばらしいと思われます。
 山本さんのスピーチも聴きますが、内容に説得力があるのはもちろんですが、いつも正確でよく吟味された言葉が使われているのに関心します。
 それに対してというべきか、何を言っても何をしても、国民からおとがめを受けることがなく安泰であるという“安心感”・・・それがどこからくるのか不明ですが、麻生さんや安部さんの言葉の使い方のいい加減さときたら、いちいち例をあげるまでもないでしょうね。
 せめて官僚たちのつくった作文を「読む練習」さえしておけばだいぶ違うのでしょうけれど、そんな時間がないとか、選挙システムは完全勝利に仕込んであるし、マスコミにもかなりの金を食らわせていて世論調査フェイク創作の対策している後なので、めんどくさくてやってられないのでしょう。たぶん。