Tokyo 2月21日(水)
         
  家を持っても持たなくても

  「人並みに」マイホームを買い、「人並みに」生まれた子供には教育を与え、「人並みの」死に方をしたい・・・。日本人にとって人生 の指標は、「人並み」という、言葉を換えれば「世間体」を基準としていることが多いのです。
 ただ付和雷同という、周囲にあわせるだけというマイナスの意味ばかりでなく、常識的なものの考え方ができるというのはひとつの大切な大人としての特質な のでしょう。常識がわからないのはまだ子どもだからとか、世間にも広く受け入れられるような生き方が平和な生活の基礎というのは間違えてはいなからです。
 問題は、何をなすときも、世間体だけを基準にしてしまうために、ものごとを抜本的に変革すべきなのに、変革どころか場所を変えたり時間をかえたりなどさ えできず、ひたすら保守的であろうとするのが日本人の精神構造にみられます。それは美徳です。キリスト者としてみれば、これまで“常識”という通念と戦っ てきた歴史がありました。世間体にあわせるのではなく、社会にたいして“世間体”の中身を一新するようなラジカルな思想的基盤となってきたのがとりわけプ ロテスタント系キリスト教だったといえます。
 先にあげた人並みにマイホームというものの考え方を見直す、つまり、生涯借家暮らしで充分なのだという考え方が増加しているのだとのことで、わたしは自 分の家をもてたとしたらそれも悪くないと思いますが、レンタルの家とか部屋で生涯を終えたとしても全く問題がないと考えます。
 「男として生まれたからには人並みに家をもたなければ」とか「世間に恥じないようなりっぱな“学歴”」とかいうのを耳にすると、心が騒ぐのです。それ は、キリスト者としての生涯が、「天国に宝を積む」生涯であり、「天国に国籍をもつ」生涯でもあると同時に、アブラハムのように「天の都」に憬れるように 教えられてきているからだといえます。
 牧師(もしくは)教職者が自分の持ち家をもつことに反対ではありません。資産がどれほどのものであったとしても、国家にたいして、私有財産を守るという のも大切な、そしてキリスト教的価値観の特色のひとつだと思うからです。
 牧師や宣教師など、キリスト教の教職者が「決められた家をもたない」という生き方をするのは、資産があるかないかという意味ではなく、地上にあるなにも のをも目標としないという考え方を尊重した結果です。「持ち家が確保できたから安泰」とか「経済的基盤ができたから安泰」とかいう言葉が教職者から発せら れるとしたら、それは信仰とは異質の「世間体」を基準とした生き方により、世俗化によって福音の本質がねじ曲げられた結果なのではないかと疑います。