Tokyo 2月16日(金)
         
 2018 年2月18日 調布南教会 第三主日礼拝
招 詞 ヨハネ13:12−15
賛美歌 67(よろずのもの)
交読文 詩篇19:7−14
聖書 創世記6:5−22
賛美歌 124(み国をもみくらをも)
説教 聖書の女性 A ノアの妻
 「夫に従う」ということ
賛美歌 367(たくみの業を)
頌 栄 545(ちちのみ神に)

ノアの妻がどのような時代に生きていたか
 ノアについて聖書は、創世記6章の5〜9節で次のように記録しています。

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残 念に思うからだ。」 8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。 9  これはノアの歴史である。 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

 地上に増加していったたくさんの人々のなかで、ノア一人が主の心にかない、「正しい人」であり「全き人」であったと記されています。
 とこころが、ノアについて書かれているにもかかわらず、ノアの妻については、聖書には書かれていません。何も書かれていませんが、聖書の記録から事実と して認めることができるいくつかのことがあります。
 そのひとつはノアと共に長い時間を生きたことでした。
 ノアは箱船をつくるように命じられました。ノアがつくった箱船によって、つがいの動物たちと、その妻と子どもたちそして子どもたちの妻たちとともに、大 洪水によって滅ぼされないように守られたのでした。とてもよく知られている聖書の歴史です。
 聖書の世界とわたしたちの今日の世界が違うところがあり、とても気になるのは、非常に長寿であったことでした。年齢の大きさのゆえに、世の人々は、聖書 の歴史を作り話だと笑いものにするのですが、セム・ハム・ヤペテという3人の子どもたちが生まれたときの年齢も、5章の32節によると、500歳であった と書かれています。箱舟が完成したのは、すでに600歳でした。
 そももそ、現代の常識からいうと、あまりに長い1000年にも届くばかりの年齢は、それこそありえない空想のようです。けれども、主は人の心のなかにい つも罪ばかりであるのを嘆かれて、年齢を120年と定められたのであり、人の年齢が120年を超えないというのはいまや現実のものとなっていて、主が決め られたようになっているといえるのでした。
 いずれにせよ、ノアの妻は、箱舟に乗ったのであり、ノアの年齢とほぼ同じであったとみて間違いないのです。そしてさらに大切なのは、エバによって全世界 に人が増加していったのでありますが、大洪水の後は、ノアの妻によって全世界に人が生まれ出るようになったという意味で、第二のエバである。今地上に広が る人は、例外なく、ノアの妻を母体にして生まれてきた子孫たちであるということ、これも紛れのない事実なのでした。

無名であることの価値
 ノアの妻については、年齢も名前も、何を言ったか何をしたかいっさい記録されていません。
 ある人が、これほど完全に無視されているような女性だったのだとしたら、とても主の心にかなっていたとはいえないのではないかという感想を述べておられ ました。
  書かれているから主のめにかなった。書かれていないから神様からも無視されていたという聖書の読み方は正しくありません。
 なぜかというと、聖書に出てくるクリスチャンのなかで、名前が紹介されているのは、ごく一部であるに過ぎないからです。イエス様のまわりにも、マグダラ のマリアの他に、たくさんの女性たちが従っていったとされているでしょう。すべて名前が知られていません。ただ、ルカ10:20には「悪霊どもがあなたが たに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と書かれています。
  聖書に名前が記されていないから用いられなかったとか、神様から無視されていたというのは、完全な間違いです。むしろ、主が用いられる僕としてであれば、 「どのように主の名を高め、地上に主の名だけを残し、自分の名をすべて消し去れるか」に熟練したほうがいいとさえ思います。

 わたしは職人の世界に身を沈めるようになってまだ5年目ですが、わたしが職人の方々からうかがっていて、最も心に留まったのは次の考え方でした。
 一般的に、人から褒められるような仕事をしなさいといわれるでしょう。学校での教え方もほぼ褒められることを目標とします。成績が良いと褒められる、褒 められるような結果を出しなさいと教えられてきたでしょう。  
ところが、ほんものの職人であることの基準は、人から褒められ気分が良くなって、舞い上がっていうちはまだ未熟だというのでした。ほんものの職人は常に向 上を目指すのであり、途上にありつづけ、学びと研鑽を積み上げていかなければなりません。職人の業が、誰がそれをしたかなどに誰も注目しないで、職人がつ くったものが何であれ、むかしからそこにおかれていたかのようにあたりの景色に馴染んでいるのなら、自分の名が刻まれるのはどうでも良いのであり、それこ そが職人のほんらいの目標だというのでした。
わたしは、キリストにある生き方も、それに似ていると思います。
 ノアの子孫たちのなかには、地上の支配者となり、地上に名を残したいというあのニムロデという名士もあらわれ、天にも届くかと思われるような塔を作りま した。偉くなりたいとか、歴史に名前が刻まれるような人物になりたいという野心にかられるのは世の常でしょう。主は、むしろそのような、名を残したいとか 人目に注目されるようなことをしたいとかいう野心にたいしては、むしろ敵対されているのではないでしょうか。
「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」(イザヤ42:8)
ひたすら主にのみ栄光を帰するという生涯においては、たとえ名前が知られることがあっても、そして反対に誰にも知られなかったとしても、ただ主の名がたた えられることを喜ぶことができるように導かれるのではないでしょうか。
有名になりたいとか、大きな業績を残したいとかいう野心が罪の温床になりえるのですが、結果として人に名前を覚えられるようになるとか、結果として有名に なることが罪だというのではありません。
 けれども、パウロがピリピ人への手紙でいう「わたしたちの国籍は天にある」という人生は、主のために力を尽くし思いをつくし自分ができる最善を尽くした としても、名前が残されるのをむしろ望まないことでしょう。
 インドネシアのオクタビアヌスという教師が、宣教師訓練セミナーにおいて語っていたことが思い出されます。
「どれほど全身全霊をささげて努力し、どれほど宣教地の人々のために見える業績をあげたとしても、自分の名前がどこにも刻まれず、やがて人々からも忘れら れていくことにむしろ満足するように」と語られていたのを思い起こします。
ノアの妻は、ノアが箱舟をつくるように命じられ、完全にノアと行動をともにしたというのは聖書から読み取れる事実です。
名前については、ユダヤの伝承として、カインの子孫のなかに「トバルカイン」がいて、ナアマという妹がいたとされ、ナアマが妻の名ではないかとされます が、はっきとしたことはいえません。むしろ、聖書があえて名前を記さなかったとろに注目するとき、ノアのあとに完全に従うということができたのだといえる ところに注目しなければなりません。ノアに従うことが簡単だったといえるはずはありません。
 ノアが主の心に従って、箱舟をつくるようにいわれたあと、ノアは妻と子どもたちにそのことを伝えたはずです。妻がそれに従ったのですが、ノアとともに、 乱れに乱れている当時の世の人々と歩調をあわせない生き方をするように示されたのでした。
ですから、妻としてノアに従うことこそが、ノアの妻にとってはそのまま主に従うことでした。
 世から受ける抵抗もあったでしょう。世間体の冷たい風を直接身に受けていたのは、ノアの妻だったと思われます。それでも、完成まで100年ものあいだ、 息子たちとともに箱舟をつくるノアに従い通したという事実は、ノアの妻もまた主を畏れるものとされたという意味でした。

みことばに従う模範を示すということ
   主はノアをみて、その上で、ノアの妻と子どもたちを受け入れたというとき、常に聖書の一貫した原則ですが、主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあな たの家族も救われます。という原則がノアの妻の場合もいえたのです。ある家のなかで、ただ一人でも主への従順を保つことができたとしたら、あとのまだ信じ ていない家族全員が、聖霊の導きのもとに道を備えていただけるのだと信じることができるなら幸いです。
ノアとその妻のほかに、3人の息子や息子の3人妻たちが、ノアを信じて従うことができたのは、ノアの妻がいたからでした。いいかえれば、セム・ハム・ヤペ テとその妻たちの計6人にとって、ノアの妻は模範であり、「主に従うとはどういうことか」を具体的にみえるように示す、それも唯一の模範だったといえるで しょう。
 江戸時代であれば、夫に従うことが美徳とされ、現代において、反抗することに光があてられるようです。まして夫に従うなど、時代遅れの産物と一蹴されて しまうかもしれません。
 けれども、地上において主イエス様もまた、従順を学ばれました。
 ヘブル人への手紙4章8〜10節にこのようにあります。
 「キリストは御子でられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全なものとされ、彼に従うすべての人々にたいして、とこしえの救いを 与えるものとなり、神によってメルキゼデクに等しい大祭司とされたのです。」

 少し厳しい言い方ですが、子どもたちが主に反抗するとしたら、もしかしたら、その妻のなかに夫への反抗的な何かが見えていたのではないかと疑います。全 部の例がそうであるとは思いませんが、子どもが目上の人にどう対応するかは、彼らの母でありひとりの夫の妻である人が夫にたいしてどういう模範を示したか を示す、いわば鏡のようなものだと考えたことがあります。
 妻が夫にたいして示すべき従順について、第一ペテロ3:1〜2において、ペテロは次のように言います。

 「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。そ れは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」
 
 「無言のふるまい」という言葉を、ノアの妻にあてはめるとしたら、ひたすら日々の生活と行動によって主への従順を示したのであり、セム、ハム、ヤペテと 妻たちにとって、主への従順を示す模範であったのであり、息子の3人の女性たちにとっては「妻として夫に従うための見える模範」とされたのです。
 大切なことは、妻たちの清い生き方が、みことばに従わない夫にたいしても見えるようにされるのです。ノアのように、主の目にかなう生き方をしているのか どうかが夫に問われるでしょう。そして、たとえ夫がノアのように正しい生き方から“ずれて”いたような場合でも、従うことを通じて、それが模範となるように働 かれ、主の心は、やがて見えるようにされるに違いありません。
 これは夫への服従をただ奴隷のように実行せよという意味とは全く違います。
 「神を怖れかしこむ清い生き方」が主に与えられた美しさの鍵です。ノアの妻の容姿のことも一切書かれていません。
世の女性たちがなんとしてでも求めてやまない女性の美しさがあり、「神を畏れかしこむ清い生き方」は、女性の本来の美しさにさらに磨きをかける秘訣なので す。
 世の人々がもとめてやまない男らしさもそうです。男らしさも女らしさも、主を怖れて主に従うところから賜物として与えられるのだと信じましょう。