Tokyo 2月14日(水)
         
   ひとつの教会に生まれてから天に召されるまで、同じ教会の教会員であるということはすばらしいことだと思います。
プロテスタンチズムから生み出された「地上の教会の神学」は常に聖書の光によって検証されなければならないとしても、家族のような交わりであるとか、実際 に遠縁近縁の親戚によって形成されるというのも、実は麗しい事柄なのだと思われます。
 もともと、別の教会によってキリスト信仰に導かれ、その上で、接ぎ木されるように加わった人と、はじめから教会に属しているもののあいだの“格差”とい うものは原則論としては存在していないのです。ところが、あとから接ぎ木されたように加えられた信徒が、いったいどのような経緯でそのようになったか、は たして罪はなかったのかなど、人の知ることができる範囲はきわめて限られているため、「新参者」への警戒感から、あえて生粋出身者の枠組みに繋がるのに時 間がかかるということはあります。具体例がないと少しわかりにくいのですが、ユダヤ人中心の教会に、異邦人が次々と加えられるようになり、反目しあってい たサマリア人なども加わるに及び、「ユダヤオリジナル信徒」なのか「異邦人出身」なのか“格差”と呼べるものが存在していました。
 パウロは、ふたつの川が合流するとき、いたるところで氾濫が引き起こされてしまうように、ユダヤ出身者に“割礼”があることにめをつけて、自分たちを差別化しよう とした人々が立ててきた神学的前提としての、「行いによる義」に徹底的に対抗して手紙を書いています。
 親戚の交わりが色濃くなるところでは、パウロの救済論が「原則論など通用しない」と思われた人々もあり、ガラテヤ書によれば、ペテロも次第に引きづり込 まれるような結果をみたようで、パウロからかなり諫められていたとみられます。
 身内の親密さが生み出される神学的な妥協にたいして、抵抗しないままでいると、つまりこのような非聖書的妥協があちらこちらに生み出されるといった悲惨 を見るようになります。ひとつの教会への固着が、地上的な固着の色彩を帯びるようになるのは罪が生み出すひとつの現象なのではないかと思われます。信徒の 立場から考えると、さきにも触れたように理想的な信仰の生き方です。ところが、「地上の教会への固着」とか「〜教会の会員であることに誇りを持つ」という ところまでひっぱられてしまうと、「わたしたちの国籍は天にある」とか「来るべき都を慕い求める」というパウロの示した信仰生活の原則からずれてしまうこ とに気がつかねばなりません。
 地上の教会を尊び、愛し、存続と繁栄のために全力を尽くすというのも、またパウロ的であるといえるとしたら、パウロと同じ「板挟み」を感じられないま ま、「〜教会の信徒である」「〜牧師のもとで育った」「〜牧師の説教でなければ」などという、固着の仕方は、やはり“乳離れできない信仰”ということにな るのではないかと推察されます。
 いえ、乳離れできないまま地上の生涯を終わるのもありでしょう。けれども、聖書は信徒が乳離れできない信仰の状態に留まっているのを容認してはいませ ん。
 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、 神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲ん でいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。 (ヘブル5:12-13)
 
教師や長老を尊敬することはすばらしいのです。尊敬されるような聖霊の器としての説教も。
 ところがその他の牧師と比較して、牧師の説教しか聴けないような信徒に育ててしまったとしたら、そのすべての責任は説教者である牧師にあります。「神の 言葉」を傘にして、“〜牧師のことば”を語られているからです。
 “〜先生の説教はすばらしい”などと褒められて悦にいっているくらい罪深いものはありません。信徒が乳飲み子のままの状態にあると知っていながら、牧師 が自己満足をするためだけのために「キリスト信徒もどき」を生み出してしまっているのですから。
 無教会主義の影響を受けた教会にこの傾向は強く、わたしは、キリストの名を語りながら、現実には人に栄誉が帰されるような宣教のありかたについて、主は 嫌悪感を示され、このような教会が地上に存続することさえ喜んでおられないのではないかと危惧します。
 嗚呼。それがただの杞憂でおわれば良いですが。