Tokyo 2月6日(火)
         
 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ福音書12:13〜)

 倉ができるほどの財産。うなるほどの財産を貯め込むというとき、「自分のためにたくわえるか神のためにたくわえるか」という意味では、たとえば何の欲得感情もなく、先祖からの伝承だったりする場合もあったり、スポーツ選手やタレントなどのように能力にお金がついてくるような場合などは、主イエスが話題にしておられるような事例に必ずしも当てはまらないのではないかと思われます。お金はむこうから勝手に入ってくるものに過ぎないからです。お金そのものへの執着は、もともともっていないと思われるからです。
 どれほどの財産を所有しているとしても、それで人生が決まってしまったかのように考えるのは間違いです。最初からこの真実がわかているのであれば、たとえ財産があってもそれで思い上がるような傲慢な心になることはないし、反対に失ったところで、ほとんど失望感などはないことでしょう。もともと、創造主は人が地上での生活をエンジョイできるようにすべてのものを創造されているのであり、金をいくらためこんで、それで倉をつくっても、せいぜい自己満足か、自慢話のネタにするかくらいで、あとは盗まれはしないかとビクビクするような小心が入り込むくらいで、金をもっていることそれ自体には何の価値もないのでした。金をもっていても、誰も注目してくれないとか、まして褒めてくれるようなこともないので、ぜいたくな生活をしていることをアピールしたくなるのですが、港区とりわけ銀座周辺に身を寄せると、そのような“不思議な人種”がたむろしているのでした。リッチな生活に満足を覚えるのも悪くない。リッチな生活したことない人からただの嫉みで言われたくないとかなるのでしょうね。
 安部さんを倣い、安部さんが気に入られるように“自己保身こそが最高の目標”“目的のためには手段を選ばない”“財産を入れるための倉をつくる”が人生 の行き着く先だとしたら、むしろ一番“貧乏くさい”生き方を選ぶことになります。
 繰り返しますが、安部さんに気に入られて喜んでいるようでは日本人としてはダメです。
 安部さんから嫌われて“なんぼ”です。
 むしろ、いまや安部さんから嫌われることがあるかないかは、ほんとうにその人に愛国心があるかないかの試金石でしょう。違いますか?
 「神の前に富む」ということを知り、そして地上のものも豊かに与えられていたのがアブラハムという信仰の父です。主はアブラハムのように、信仰のゆえに地上にすむ信徒を溢れるばかり恵まれるというのも事実です。アブラハムが幸いだったのは、主から与えられたすべてを感謝する心、もっていない人を蔑まない心、それに、地上においていくら裕福になっても、最終的な居場所は天にもとめていたところです。
 それでは、地上で豊かになっることを無価値というのもどうかと。主とともにいることに安堵し、主からいただくもので満足し、主の喜ばれる労働と奉仕と隣人愛を実現できているなら、たとえお金があってもなくても、ソロモンが箴言で言う・・・それこそ“毎日が宴会”です。
 不正をした結果得た“安定”に甘んじ、それが失われはしないかと戦々恐々としたリッチさに憬れるのは愚かです。
 主イエスさまが示す金欲に支配されない信徒の行き方についてだけについていうと、キリスト者ではないですが、元首相の村山さんや、現役ハリウッドスターのキアヌ・リーブスにみられます。
 わたしはまだそこまではとうてい到達できないですが、アッシジの聖フランシスコのように生きられたらと考えます。